悪辣ピエロ 1


在庁待機のその日、昼休憩に出ていた湯田が何やら慌ただしく飛び込んできた。
デスクに向かっていた葉山が鬱陶しそうに目を向け、コーヒー片手に新聞を広げていた石倉もまたその手を止めた。

「うるさいわよ、コウヘイ」

玲子も書類から目を離す。
注意を受けた本人は、なぜだか興奮気味に口を開く。

「俺、見ちゃったんすよ!」
「何をよ?」
「いやあ、俺もうなんかびっくりしたっていうか!」
「だーかーら、意味わかんないんだけど」

湯田がぐるりと顔を巡らせ、玲子に向き直る。呼んでもいないのに、呼ばれた犬のように小走りで寄る。
上司を手招きして耳打ちのポーズ。

「菊田さんが女の子とメシ食ってたんすよ!」

耳打ち関係なしの大きな声で。湯田は大きな目をきらめかせている。
玲子はちらと斜め前の席を見やる。そこにいるはずの主は不在で、湯田と同じく昼休憩に入っている。時間を見るに、そろそろ戻るだろう頃合いである。
片眉を上げた玲子に、「……バカ」という呟きが誰かから漏れた。おそらくは湯田に向けてのものだろう。

「……へぇ。ま、いいんじゃない? 休憩時間なんだし? どこで誰と何してたってさぁ?」

上司だからと、その程度の出来事を報告させる義務はない。多少面白くないと感じるのは個人的な感情だ。……理由には見て見ぬふりをする。
湯田はわずかに口ごもりながらも喋りたくて仕方ないのか、口を閉ざす気配はない。
仕事になるとそれなりに使える部下と認識しているが、それ以外のこととなるといろいろ緩くなってしまうのはどうしたことか。

「俺らくらいの子だったんですけどね、あ、なぁんか深刻なムードでー」

別れ話とかですかね? なんて聞かれても知るものか。
そういえば菊田とそういった話はしたことがない。好みのタイプすら聞いたことはなかった気がする。

「誰がなんだって?」

ぎゃあ、と声が上がって苦笑する。本人のいないところで噂話なんてするから自業自得といったところだろう。

「主任、昼休憩いただきました」
「はいはい、おかえりー」

いつの間に戻ったのか、菊田が湯田の首に腕を回し締め上げる。じゃれあいのつもりなのだろう、だが湯田は半ば本気で抗っているようだが抜け出せずにいる。
今は事件に出張っている日下班もいないし、平和だ。なんとも穏やかでため息が出る。

「飲み物買ってくるわね」

居所を告げて席を立つ。
増員がかかれば姫川班の出番だが、被害者はストーキングされていたとかで犯人の目星はついているようなことを耳にしたからそろそろ解決でもするのだろう。余所の手柄など面白くもない。
なんともいえずむしゃくしゃした気持ちで自販機の前に立った。小銭を突っ込んで、さあ、

「……結局いつも同じの買っちゃうのよね」

ラインナップが変わり映えしないこともあるとはいえ、変わったところで選択するのは似たり寄ったりか。
ボタンを押して転がりでる缶コーヒー。手前の椅子にどかりと座った。

この間担当した事件は呆気なくケリがついたし、しばらく大きな事件に関わっていない。
平和なのはいいことだ。事件が少ないということは世間が平穏ということ。それでも、と考えてしまうのは刑事の性か。

「昼飯行かないんすか?」

背後からの声に仰ぎ見る。
菊田。名前を口にすると、穏やかな笑みが返った。

「葉山はさっき湯田が買ってきた弁当食ってます、あとは主任だけでしょう」
「そういやノリ頼んでたわね。お昼か、どうしようかな」
「出る気分じゃないなら、俺買ってきましょうか?」

相変わらず甘ったるそうなものを購入する後ろ姿を眺めて頭に浮かべてみる。
一人食べに行く、弁当を買いに行く、買ってきてもらう、食べない。

「食わないってのはナシで」
「そりゃ食べるわよ。いつ呼ばれるかもわかんないんだし」

ならいいです、と笑う菊田はこんな時、部下というより兄か何かのようだ。
ふいとそっぽを向いて、玲子は缶を傾ける。
自然に隣り合う場所に腰を落ち着けた菊田を見るともなしに見て、耳に湯田の言葉がよみがえった。

「若い女の子とお昼してたんだって?」

テーブルに頬杖をついて、下から顔を覗き見る。詰まらせた喉と咽せて咳き込む様が見て取れた。詰まったのが形のない水分でも苦しかろう。すぐに治まったが。
手で口元を拭う菊田は、次いで小さく笑う。

「……友達、っていうか、幼なじみが近くにきてたんで。ちょっと」

その様子に嘘はなさそうだ。
幼なじみ。そりゃあ仲もよさそうだ。

「結構な年の離れた幼なじみなのね」
「はい。妹みたいなものですね」

言って笑う菊田の表情はやさしい。
ふうん。……いつもはしない顔しちゃって。

「仲いいのねー。うらやましい」
「は?」
「なんでもない。お昼行ってくる」

ぐいとコーヒーを飲み干し立ち上がると、空けた缶をゴミ箱に放り投げて背を向ける。「いってらっしゃい」の声を受けながら歩けば、通り慣れた廊下にヒールの音がやけに響く気がした。





浮游する回路

──慣れない感覚、絡まる思考回路





執筆:12.05.02