幸せになりたいなんて自然な欲求

 夜間、急患も急変もなく落ち着いた医局で、口を開いたのは緋山だった。カルテを整理しながら、そろそろ仮眠でもしようかと思いながら、ふと暇つぶしがてらに聞いてみたくなった。

「藍沢はさ、結婚願望とかあんの?」

 それは先日白石にも尋ねてみた質問。今夜はビール片手に、とはいかないが。どうせ受け流されるだろうし素面で聞いてもいいかと考えて。
 藍沢はパソコンを操作する手も止めず、

「相手次第だ」

 と簡潔な答え。しかしそれは予想とは違っていて驚く。興味ない、もしくは関係ないとでも返ってくるものと思っていたのに。

「え、それってさ、そういうこと考える相手がいるってこと?」
「いるかいないかも含めての相手次第だ」
「ふーん」

 思わず前のめりで聞いてみても、淡々と、簡潔で、曖昧。
 カタカタとキーボードが、カチリカチリとクリック音が、絶え間なく聞こえるなか緋山は頬杖をつく。

「あたしはさ、結婚とまではそんな考えてなかったんだけど、やっぱ寄り添える相手は欲しいなと思ってたわけ」

 まあそうじゃなければ合コンなんてそう行くわけがなく、他人に興味がなさそうな藍沢でもそれくらいは予想がついているだろうが。
 この男がちゃんと聞いているかはわからないまま、緋山は独り言と割り切って話し出す。

「でもさ、この歳になってくると、別に今どき珍しくもなんともないけど親世代からしたら半ばいき遅れ扱いだったりするわけじゃない。男はまだしも、女はこども産んでなんぼみたいなさ、この時代そんなの流行んないけどどうしたって出産できるのは女なわけだし」

 少子化問題なんてものもあるけど、さすがにそこまで考えていられない。そういう問題は若い子たちに任せるとして。

「周産期でさ、そりゃあ胸糞悪い現場も時にはあったけど、命の誕生って尊いわけよ。すごい幸せオーラ出てんの。すんごいよ」

 だから自分も産みたいと思う。できることなら。 でもそうなると、だ。そろそろ本腰入れないとどうにもならない。

「今から出会って結婚して出産して、ってさ。なんも知らないわけじゃないんだから別に恋愛なんかなくたって割り切れるかとは思うんだけど」

 たとえば、新薬の開発合戦に敗れて妻の前で自殺しようとした秋本だったり、事故により仕事を失い離婚することになった緒方だったり、そんな夫婦の姿を目の当たりにした。愛しあって妊娠しても、産んであげられないこともあると知ってもいる。それらすべて、立て続けに身近に感じたばかり。

「最近は結婚とか夫婦とか、面倒そうだなーって気持ちも生まれててね。でもさ、そしたら白石、なんて言ったと思う?」

 ソファに座って、こともなげに答えた白石の言葉は、思いがけず胸に響いた。そういうことに縁遠そうで、さして興味もなさそうな彼女が。

「誰かと生きるのって素敵で憧れるって。白石らしいよね」

 とても彼女らしい、まっすぐな考えだと思った。
 自分だったら素面でそんなこと言えやしない。

「もうさ、あたし男だったらよかったんだよね。そしたら白石つかまえてさ、すっごいぶつかったりもするんだろうけどそれもまるごと楽しく過ごせそうじゃない? とか、最近とりとめもなく考えちゃうんだよねー」

 藤川と冴島は大変なこともあの二人なら越えていけると思うし、白石は相変わらずまっすぐだし、あんたはどうなのか聞きたくなってね。
 視線を投げれば、藍沢はやはりパソコンと向き合ったまま。

「聞いて気が済むならたまには話くらい聞いてもいい」
「あんたもね。なにかあるなら聞いてあげるけど?」

 幸せになりたい、なんて生きていて当然の欲求。誰しもそこにたどり着こうとするのに、それはなんて困難な道のりなんだろうか。

「……考えておく」

 短く答えた藍沢にも思うところはあるのだろうか。
 昔から変わらない表情筋も、今では幾分動きを見せ、付き合いの長さから多少読み取ることもできるようになってきたのだが。内心を素直にはさらしてくれない。

 キーボードを打ち込む音が響くなか、ただただ夜は更けていく。