恵みの雫
「あっ」
医局でデスクワークをしていると、白石先生の息を飲むような声がしたと思ったら、続いてなにが落ちた音が聞こえた。振り返った藤川先生は、今しがた自分がぶつかった机に何気なく目をやって、慌てて向き直る。
「うわ、ごめん白石! 壊れた!?」
「あ、ううん、同じのもうひとつあるから」
大丈夫と言って微笑する白石先生の手には真っ二つに割れてしまったコースターがあった。それを見て私も「あっ」と思わずつぶやいた。紙やコルクでできたものではなく割れ物であることを私は知っていた。
「ほんっと悪い! それ結構使ってたやつだよな、代わりになにか持ってくるよ」
「いいよいいよ。私こそ、壊したくないなら家で使えばよかったんだから」
「マジでごめんな」
藤川先生は忙しなく謝るけど、だからといって壊れたものが元に戻るはずがない。
白石先生は笑顔を見せているけど、ほんとは悲しいんだろうなぁって、コースターを握り締める丁寧な手つきにそう思った。
そこからはICUの患者さんの急変に対応したり、ホットラインが入ってヘリで飛んでいった藤川先生、名取先生、雪村さんが連れ帰った急患を受け入れての緊急手術などがあり、いつの間にか昼間の出来事なんてすっかり忘れていた夕方。
「ちょっと出て来るね」
先陣を切るようにしてメスを握り手術に挑んでいたシニアドクターの先輩方が全員揃った医局から、白石先生は資料を抱えて部屋を出て行く。
藍沢先生は自分の席からじっとその姿を見送っていて、私はそーっとそちらに近寄った。
「藍沢先生」
呼びかけると返事は視線で返される。睨んでいるわけじゃないんだろうけど、鋭い目つきにはまだ慣れない。口を開けばキツイ言葉が飛び出すかもしれないから、それよりはマシなような、いやでも言葉のほうがいいかな、うーんどっちも微妙かも。
「白石先生、もしかしたらちょっとへこんでるかもです」
「……なにがあった」
「ええっと、珪藻土のコースターが割れちゃって」
「……ああ」
だからあんな顔してたのか。と。
一人納得した様子の藍沢先生は、おもむろに立ち上がった。俺も出て来る、と簡潔に言い放って。
シニアのお二人は軽く手を上げて応えている。
「どうしたのかな、藍沢先生」
「白石先生追いかけてったんじゃないか」
「あ、やっぱそうかな」
緋山先生と藤川先生の注意を引かないよう気を付けながら、声をひそめてフェローで話す。
「ねぇ、あんな顔って言ってたけど、」
「いつもとそんな変わらない白石先生だったけどな」
「うんうん」
藍沢先生の目には、どんな白石先生が見えていたんだろう。
ただ私たちは、あの割れてしまったコースターのことを知っているだけ。白石先生のおそらく誕生日の日に、脳外科に所属していた藍沢先生がプレゼントを持ってきていた、それなのだと。なんだかとてもうれしそうな楽しそうな様子だった白石先生を覚えているだけ。大切に使っているのを見てきただけ。
「結局……どうなのかな」
「私はやっぱ、そうなのかなぁ、って感じ?」
「まあ、そうなんじゃないの。どっちでもいいけどさ」
あのときまだ面識のなかった藍沢先生を、白石先生の様子から彼氏だろうかと三人で予想した。
でもそのあと救命に指導医として加わった藍沢先生と、白石先生を含む三人の先生たちは、正面から言い争ったり全員が遠慮のない親しい雰囲気で。二人の間に甘い空気もないから、ただの同僚だったのかと関係性の予想を修正してたわけなんだけど。
言葉の端々だとか、垣間見える様子のひとつひとつに、やっぱりどういうことなの、と思うことがある。たとえば、今みたいな感じとか。
私たちにはわからないお互いの変化を読み取って、なにも言わなくても考えが伝わってるみたいな。それって仕事のパートナーだからとか、長い付き合いだからっていう問題なのかな?
私たちは三人そろって肩をすくめる。
もう少し仕事ができるようになったら、あの伝わり合う関係の秘密もちょっとくらいわかってくるのかな。