ホットラインが立て続けに入り、ドクターヘリが飛ぶ。日が沈みヘリが飛べなくなっても白車の受け入れ要請がひっきりなしに鳴り響く。夜間本来ならば帰宅できたはずの医師も否応なしに駆り出され救命にあたった、そんな二日間がなんとか過ぎ去った。
すでにまた日が沈み、このままでは全員使い物にならなくなるからと帰宅指示が出されていた。当直は藍沢と横峯が担当するはずだったが、未だ熟練度の低いフェローがこの怒涛の戦場を乗り越える体力を維持できるはずもなく、フェローは全員疲弊しきって帰っていった。
「悪いが藍沢だけはもう一晩堪えてくれるか」
橘が引き受けてくれて、藍沢以外の医師は全員帰宅できる運びとなった。はずなのだが。
橘と藍沢に負担を強いるようで申し訳なさそうにしばらく残業していた白石が、ようやっと帰宅するかと腰を上げた途端、またも緊急手術を行うことになってしまった。
「大丈夫か白石。随分なクマだぞ?」
「橘先生こそ笑顔がくすんで見えますよ」
橘からかけられた声に軽口を返していた白石ではあったが、疲労がたまりにたまっていることは誰の目にも明らかで、スタッフステーションに座り込んでいる。
藍沢としては自身の疲れも相当だと感じてはいたものの、それよりも彼女をどうにか早いところ帰宅させなければと思う。しかしこんな状態で運転させるわけにはいかないし、タクシーを呼ぶか仮眠室に閉じ込めてしまうべきかと悩む。
ひとまずやるべきことを済ませるかと、コンサルで来ていた新海と会話しているのを横目に見ながらその場を離れた。
「藍沢、白石先生寝ちゃったんだけど」
手早く必要書類を用意しICUをひとめぐりして戻った藍沢の目に飛び込んできたのは、椅子にもたれかかったまま寝落ちした白石の姿。
この戦場の二日間に入る前夜が当直だった彼女は、もう三日は帰宅できていないはずで。疲れがピークに達したのだろうとわかる。それは仕方の無いこと、なのだが。
藍沢の眉間にぐっと皺が寄る。新海をはじめ他科の医師や看護師が彼女を見守っていた。仕事をしている風を装いながらも、男たちの視線は明らか。思わず舌打ちが出た。
「邪魔したな」
苛立ちを隠しもせず、衆人環視のなか膝裏に腕を差し込み抱き上げる。新海が口笛を吹くような素振りをしたのがまた癪に障った。
仮眠室に運び込む。白石は眠ったままだ。
ベッドにそっと寝かせるものの、働き詰めで気の立っている藍沢の心は落ち着かない。
無防備な寝顔。
投げ出された四肢。
覆いかぶさるように頭の横に手をつけば、小さくスプリングの軋む音がした。
白い顔だ。薄暗いはずの室内で顔色なんて判別できるはずはないのに、その白さだけはわかる。そっと頬を撫でる。肉付きが薄い。昔はもっと弾力のあるように見えていた。若かったというのもあるかもしれない、それでもこの変化は年齢によるものだけではないだろう。ただただ、彼女ががんばりすぎている結果としか思えなかった。
白石恵は、藍沢が見るに見かねて帰れと言っても素直に聞くような女じゃない。今では特に、スタッフリーダーという肩書きもある。指揮官になれと言ったのは藍沢だが、責任感ばかり背負わせるつもりはないというのに。肩書きが足枷になるとは。
「白石……」
ささやくように名を呼んでみても、その瞼は震えもしない。
苦しい。息が詰まりそうなほどに苦しいのだ。一人で戦い続ける彼女を見ていると。自分を頼ろうとしてこない彼女の姿が胸に痛くて、どうしようもなく苦しい。――なあ、俺は頼りにならないか?
脳外から救命に戻って、互いに医師として自信も腕もつけてきて以前より理解しあえる同僚になったつもりだった。それなのに、こんなにも遠く感じる。
俺はお前がいるから戻ったのに。お前が助けを求めていると感じたから支えたいと思ったのに。……そのお前が手を離すな。
そっと。羽根が触れるよりもそっと。唇を落とす。額に。瞼に。頬に。
今もし目を覚ましたなら言い逃れのできない状態だ。それなのにその目を開けて欲しいと思った。瞼を押し上げて、丸いいつもの澄んだ瞳に自分を映して欲しいと。
「……どうすればお前を捕まえられる?」
腹の底から焦げつくようなこの痛みは、医学書にも論文にも見た覚えはない。どんな症例も当てはまらないのだろう。こんな焦燥感を抱えていると、彼女は知らない。
眠りに沈む白石を見つめたまま、熱のこもった吐息を落とすことしかできなかった。