触れるなら


「はあ!? 痴漢に遭った!?」

 緋山の声に何事かと視線が集まる。スタッフステーションに駆け込んできた白石は、慌ててその口をふさごうと両手を伸ばす。しかし呆気なくかわされ、仁王立ちした緋山に睨み上げられることに。

「どこでよ! あんた車通勤でしょ!?」
「通勤中じゃなくて、ついさっき、その……院内の売店で……」
「はあああああ!?」

 さらに上がるボリューム。緋山のヒートアップの度合いを顕著に表している。その手が怒りそのままに机に叩きつけられる。居合わせた灰谷が身体を揺らして縮こまった。

「病院でドクターに痴漢! どんな腐れ野郎よそいつ!!」

 通報は容姿はと矢継ぎ早に問いを重ねる緋山に、しかし白石は眉を下げたまま小さく首を振るだけ。
 違和感を感じ、まさかと見遣ったときには逃げる後ろ姿がちらりと見えただけ。これはと認識した途端、さっきまで違和感でしかなかったものが急激に不快感に変わった。

「私服だったから患者か付き添いだと思ったのかも……」
「それにしたってないわ。病院で痴漢行為だなんて、そいつ見つけたら頭カチ割ってやろうか」
「緋山先生。医者の言う言葉じゃないよ」
「冗談に決まってるでしょ。つか、あんたこそもっと憤りなさいよ。嫌だったんでしょ? だからあたしたちのいるここに戻ってきたんでしょうが」

 その通りだった。昨夜はなんだかんだと当直でもないのに居残ることになり、今日は休日のはずだったのがすでに昼を回ってしまって、ようやく帰宅できると思った矢先のことだった。
 こんな事態に陥るなんて思わなかったため、急に怖くなって誰かに助けを求めたくて戻ってきた。緋山や藍沢の顔があって、気がゆるんだ今はちょっと泣きたいくらい。

「あんたに彼氏でもいたら上書きしてもらえって言うんだけどね。……ああもう! とりあえず橘先生に訴えてくる!」

 緋山は鼻息も荒く飛び出していく。残された白石は、スタッフや患者の視線を肌で感じていたたまれなくなるものの、この場を離れてどうするなんて思考は回らない。
 藍沢と目が合う。眉間に力が入っていて、ああこれは心配させているのだと白石にはわかった。

「ごめん、もうちょっとだけいさせて」

 私服だけど、と。中に入り込み椅子に座り込んだ。
 他人だらけのなかに紛れることも今は少なからず怖くて、かといって一人になるのも嫌な思いを反芻するばかりになってしまいそうで嫌だった。

「……仮眠室で休んでおくか?」
「ううん、なんか、思い出しちゃいそうだから」

 藍沢の気遣いはありがたく、それでも白石は首を振る。それもあり、近い医局ではなくここまで足を運んだのだ。しかし眉をひそめた藍沢は、白石に立つよう促す。ためらいがちに伸ばした腕でその手を掴むと歩き出した。

「……藍沢先生?」
「ここだと落ち着かないだろう」

 先ほどの会話は多くの目に耳に晒されていた。興味本位の視線から遠ざけようという藍沢の心遣いだった。医局に向かう二人の足取りは、気分からか重く感じられた。
 白石は、藍沢に掴まれ引かれる手を見た。当然かもしれないが、不快感はない。藍沢は男に触れられたくないのではと考えた様子だったが、見知らぬ痴漢と信頼する仲間では条件が異なりすぎている。

「……ちょっとだけ触ってって言ったら、」

 ぽつり、こぼれ落ちた言葉に白石は自分でハッとする。

「あのごめん嘘! ちょっと言ってみただけだから、」
「……俺が触っても気持ち悪くないのか」

 思わずだろうか、藍沢は足を止め複雑な表情を見せた。

「気持ち悪いわけない!」

 反射的に否定する。あんな誰とも知れない男に触られ不快で落ち着かない身体。己の欲をただ押し付けるような男と、こんなにも心を配ってくれる彼が、同列であるはずがない。
 医局には幸か不幸か誰の姿もなく、むずかしい顔をした藍沢が口を開く。

「どうすればいい」
「え?」
「……どこを触られた」

 目線は合わないままに問われ、白石も目を伏せる。

「あの、ね、…………ごめんやっぱり無理」

 白石は自分が言い出したくせに顔を赤くして狼狽えた。

「変なこと言ってごめん! 恥ずかし、い、」

 距離を取ろうとする白石の腰に腕が回る。引き寄せられて、しかしそれは一瞬で離れる。
 呆気にとられて見つめる視線の先で、藍沢はなんでもない顔をしていて。

「嫌な記憶は忘れろ」

 じわりと身体が熱を持つ。意識がそこに集中してしまう。言葉を失った白石に向けられた目は、そこに孕んだ色合いは、何を意味しているのか。
 問いただすことも深く考えることもできないまま、ただ見つめ合うなかドアが開いた。

「ああこっちいたの」

 緋山が顔を出す。スタッフステーションに立ち寄って探していたのだろう。藍沢はさり気なく自分の席へと移動していく。

「橘先生から今回のこと上にいくと思うから、そのうち事情聞かれるかもしんないけど。大丈夫?」
「あ、うん。情報らしい情報も提供できないけど」

 緋山の心配はわかる。確かに思い出さなければならないのは苦痛だろう。それでも今後の被害が防げるのなら白石に否やはない。
 ぐるりと首をめぐらせた緋山は、そうだと声を上げる。

「藍沢。今んとこ落ち着いてるし、あんたももう上がっていいからさ。こいつ持ってってよ。一人で帰すの危なっかしいし」
「え、ちょっと、」
「一人になるのが嫌なら飯でも行っといで。あたしは当直だから付き合えないしね」
「待って、私そんな、」
「……わかった」

 白石は戸惑うが、その間に藍沢は席を立ち医局を出ていった。返答から着替えに行ったのだろうと知れる。

「緋山先生!」

 詰め寄るものの、緋山は手を振っていなす。

「今日はあたしも藤川も橘先生だっているし、あんたは帰って、なんだったら藍沢に甘えさせてもらいな。足に使ってやればいいし、奢らせたっていいんだって」
「そんな迷惑かけられないよ」
「嫌なことがあった日くらい他人に優しくしてもらったってバチはあたんないよ」

 藍沢本人が了承してんだから問題ない、と言い切られてしまえば抵抗を封じられてしまう。
 そうこうするうちに私服姿の藍沢が姿を見せ、手を振る緋山にあっさり追い出されてしまうのだった。