送り狼なんて笑える話
「送る」
簡潔な一言を告げた藍沢に、白石はご機嫌に笑う。
「いいよー、ここから近いし。気にしてくれなくても大丈夫だってー」
「仕事帰りなら別だが、酔っ払ってるのを放って帰ったら緋山に怒鳴られる」
「藍沢先生だって酔っ払いでしょー」
のれんをくぐって出ると、先に会計を済ませていた藤川が大きく伸びをしながら振り返る。今日はたまたま帰りが一緒になった三人での飲みだった。
「なんだぁ? 藍沢、送ってくって?」
「そーう。真夜中でもないしすぐそこなんだけど」
「まあ送られとけばいいじゃん。近いならそんな手間にもなんないって」
言われてみれば、そうかもしれないと思えてくる。
ふらついてもいないし、目も回っていないし、酔っているというほどの自覚はないけど。ちょっと散歩に付き合ってもらうくらいに考えれば、申し訳ないような気持ちも軽くなる。
「送り狼になるなよー」
明らかに冗談の口調で投げられた藤川の声は藍沢には無視をされ、白石は明るい声で笑って返した。
他愛ない話をしていればあっという間。心なしかいつもより短く感じて、白石はマンションを見上げながら小首を傾げた。
「お茶でも飲んでく?」
なんとなく別れがたい気がしてこぼれた声。口に出してから、あ、部屋片付いてたっけと浮かんだものの、まあでも大丈夫かなと思い直す。
藍沢はしばらく黙り込みながらも、小さく頷きあとに続いて部屋に上がった。
「適当に座ってて。お茶いれるね」
自分の部屋に藍沢がいるなんて。改めて目の前に展開された光景に口もとが緩む。なんだか変な感じ。
いつも通りの表情で、それでも少し周囲を気にして見ているのがわかる。そんなに女の子女の子した部屋のつもりはないけど、やっぱりちょっと居心地悪いのかな、なんて。
そんないつもと同じようでいて、いつもとは違う藍沢の様子に、自然と笑みが浮かんできてしまう。
「送り狼になるななんて、藍沢先生に限ってあるわけないのにね」
テーブルにカップをふたつ並べ、斜め向かいに腰を下ろす。ふわりと上がるお茶の香りがやさしい。
「藍沢先生だったらーちゃんと手順を踏んでーみたいな? あ、でも告白する姿も想像できないかなー。それだったら先に行動を起こす方がありそうなのかなぁ?」
藤川も妙な冗談を言うものだ。思い返しておかしくなる。
藍沢の顔がいいことはわかっているから告白される姿は想像がつく。しかしその逆となると途端に想像つかなくなるのは何故だろう。告白にしろ何にしろ、藍沢が積極的に行動を起こすなんて医療関係以外にあるのだろうか。
「それにしても私相手にだよ? おっかしい」
「……お前だから、だろ。でも仕事がやりにくくなるようなことはしない」
思いがけない答えが思わぬ真面目な声音で返ってきて、一瞬思考が止まる。
「え? あ。藍沢先生もそんな冗談言うんだね」
いつもと変わらない様子で言うものだからびっくりして、より笑いがこぼれる。送ってくれたけどやっぱり藍沢も酔いが回ってるんだなと納得する。
カップに口をつけると水分がスルスルと喉を通り、アルコールを中和してくれているような気がしてくる。
ふと視線を感じて目を向けると、予想外に強い眼差しとぶつかった。
「……念のために言っておくが、誰彼構わず上がっていけなんて言うなよ」
「えっと、そりゃあ相手は見て言うよ? 藍沢先生だから誘っただけで」
何を言っているのだろう、このひとは。さすがに誰でも部屋に上げるわけがないのに、当たり前じゃないか。心配性のお父さんみたいなことを言って。
首を傾ければ、目の前で藍沢の眉間に皺が寄っていく。
「……そういうことも簡単に言うんじゃない。勘違いされたらどうする」
「え? うん、ごめん……?」
何故か苛立たしげにため息を落とされる。なにか怒らせるようなことをしただろうか。お茶が口に合わなかった? いや、そんなことで怒るようなひとではないはずだ。気難しそうに見えて、実際多少気難しいところはあるけど落ち着いたひとなのだから。
不意に藍沢の手が伸びてくる。なんとなく見ていると、それは自分の後頭部に回って触れる。え、と思えば、そっと藍沢の肩に押し付けられた。
「……他のやつに隙なんか見せるなよ」
低い声は耳元をくすぐって離れる。肩に塞がれた視界からはどんな顔をしているのかわからない。
ゆっくりと離される指の感触に、どこかが震えたような気がした。
お茶を飲み干したらしい藍沢が腰を上げる。見送ろうと思いながらもなんだか身体が動かない。酔いが今頃やってきたのかもしれない。
姿が見えなくなる前にと声だけで追いかけた。
「藍沢先生、おやすみなさい、また明日」
「ああ。おやすみ」
ドアが閉まる。音がした。
藍沢が救命に戻ってきてから、彼は謎の多い言葉ばかりを投げて寄越すなぁと、他人事のように思った。