この思いが少しでも伝われば

 医局を出ていく背中を見て、違和感を感じた。
 思わず追いかけたのはただの直感でしかなかったけど、スタッフステーションに寄るわけでもなく、患者をまわるわけでもなく、普段の行動範囲から離れどんどんひと気のない方向を探して向かう姿に、この勘はあたっていたのだと知った。

 一人になりたいのかもしれない。そう思って途中で引き返して仕事に戻ったけど、三十分経っても一時間経っても、顔を見せることはなくて。
 偶然にも急患はないし、彼の担当する患者も安定していた。もしかしたら脳外のほうから応援を求められて応えているのかもしれないし……とは考えながら、最後に見た後姿を追うように院内を歩く。
 ふと、通り過ぎかけたドアを開けてみると、ほとんど倉庫化された部屋の中、まるで隅に隠れるようにパイプ椅子に座り窓から外を眺めている姿を見つけた。

「……藍沢先生」

 そっと呼びかける。ささやきに近いくらいの音量でも、外とは隔絶されてでもいるようなこの室内ではそう聞き逃せるものではない。
 聞こえたはずなのに、振り返る仕草は緩慢で。彼らしくない。
 こちらから歩を進め、そばに立つ。いつもとは違い見下ろす形に、なんともいえない違和感。

 大丈夫、と。

 聞くことはできなかった。どんな答えが返ってきたところで、大丈夫だろうと思うことはできないとわかったから。
 日中とはいえ電気も点けていないその部屋で見る顔は、普段とそう変わらない表情を浮かべて見えるのに、顔色なんてはっきりわかる明るさでもないのに、……大丈夫じゃなさそう。としか思えなかった。

「……白石?」

 気がつけば身体が動いていた。
 そっと、包み込むようにその頭を引き寄せて。

「藍沢先生はがんばりすぎだよ」

 心配されるのは私の役目みたいになってたけど、そんなことはない。私には頼りになる仲間がいると知っているもの。みんな支えて助けてくれるもの。

「……お前には言われたくない」
「いつも私に無理するなって言ってくれるけど、藍沢先生のほうが、そりゃあなんでも一人でできちゃうんだろうけど、いろんなもの抱え込んでるでしょ」
「そんなこと、」

 違うとは言わせない。強く頭を掻き抱く。
 ここにあるぬくもりに、その力強いやさしさに、幾度となく助けられてきた。頼っていいのだと繰り返し伝えてくれた。

「一人で抱えなくてもいいって、いつも教えてくれたのは藍沢先生だよ」

 話してくれれば聞くことができる。実りのある返しはできないかもしれないけど。それでも外に出すことで楽になるものもある。
 だけど藍沢先生はなにも話してはくれないから。もどかしい、そう思っていることは伝わってくれないだろうか。

 胸に抱く黒髪を無でる。リズムをとるように、何度も繰り返し。
 この思いが少しでも伝わればいい。いつも駆けつけてくれるあなたをどれだけ頼もしく思っているか、助けられているか、あなたはわかっていないでしょう。私も同じだけ、できるならそれ以上に返したいと思っていること、わかってほしい。

 しばらくそうしていたけど、藍沢先生が深く息を吐いて、その腕が背中に回された。私がしていたように、とんとんと、やさしく叩かれる。

「……もう大丈夫だから」
「そう? それならよかったけど……」
「ただ、」

 藍沢先生が言いよどむ。いつだって不遜なくらいの言動をする彼が。その手がスクラブの背中を引き寄せる。

「このあとお前と普通に顔を合わせる自信がない」

 くぐもった、珍しく気まずそうな声でつぶやかれ、あっと思う間もなく膝の上に乗せられる。

「ちょ、藍沢先生!?」

 顔を合わせることなく互いの肩に頭を乗せ、これは……恥ずかしさに熱が生まれる。
 身じろぐけど藍沢先生は離れることを許してくれず、回された手は腰を固定し、もう一方の手はゆっくりと背中を撫でる。その動きはこどもをあやすようにも思えるのに落ち着かない。息苦しいほどの動悸。

「……あの、恥ずかしいからほんと、離して」

 自分の鼓動がうるさくて、声まで震えてしまいそう。
 藍沢先生はまた深々と息を吐き出した。手が後頭部に置かれる。

「……俺の気持ちがわかったか」

 苦味を帯びた声音。顔は見えないけど、ちょっと険しい表情をしているだろうとわかった。
 つまり、恥ずかしくて顔が見られない……ってこと?

「気持ちはありがたいが、やり方は考えろ」

 藍沢先生が立ち上がるのに合わせて私も立たされ解放される。お互いに顔は見られないまま、藍沢先生が出ていくのを見送った。
 男を簡単に抱き締めんな。小さな声だけが残った部屋で、私は一人顔を覆ってうずくまった。