更衣室でスクラブに着替えていた藍沢の手が止まった。意図せず耳に入ってきた会話に、知っている名前が飛び出してきた気がしたからだ。
「またまたー。合コン紛いの食事会になんて来るわけないじゃん」
「バッカ、口説き落としたんだよ! 突撃して悩む隙を与えずに交流会ですからぜひ今夜っつって!」
「お前きたねぇ。真面目なひとなんだから断れねーって」
「だからに決まってんだろ」
目を向けるも、ちょうどロッカーの陰になる位置にいるのだろう男たちの姿は見えない。ただ声が、にやけているのだろう男の声が、聞こえてくる。
「オレお手柄〜!」
藍沢の顔がどんどん険しくなっていく。どこにも向けようのない苛立ち。ロッカーの扉を閉める音がやけに響いた。
*
ひさしぶりに藍沢の姿を見かけた。救命でフェローだった頃は毎日顔を合わせていたというのに、彼が脳外に移ってからは同じ病院内とはいえそう出会うこともなくなっていた。
あ。と思って足を止めた白石の視線を感じたのか、その背中が振り向く。目が合ったのなんてどれくらいぶりだろうか。手でも振ろうかと思った矢先、藍沢が思いがけず歩んできた。
「お前、今日飯に行くんだろう」
「え? あ、もしかして藍沢先生も参加するの?」
挨拶もなく突然切り出された話に、白石はゆっくりと瞬いて首を傾げる。
「どこだ」
どうして知ってるのと尋ねたつもりが、直接的な答えはない。場所を知らないのなら参加するわけではないのだと勝手に理解する。
「えっと、駅向こうの海鮮居酒屋って言ってたかな。それがどうかした?」
「……交流会、だって?」
「そう。コンサルお願いするにも、やっぱりある程度の関係性があったほうがいいと思うから、たまには顔出さなきゃいけないでしょ?」
万年人手不足の救命を思う。
緊急事態は昼夜を問わないわけで、時には帰宅することも難しくなる。常に心身を削られるため、人員の入れ替わりも激しい。
病状によっては専門家を求めて各所にコンサルを依頼するが、それには交流を持っていたほうがやり取りは上手くいくはずで。例えば脳外科医を必要とするときに藍沢がすぐ駆けつけてくれているように、何かあったときに応援にきてくれる人間を増やせるに越したことはない。これが橘などであればあの社交性で、わざわざ機会を作ろうとはしなくとも助っ人を確保できるのかもしれないが。
「……迎えに行く」
呟くように落とされた言葉。聞き取れたつもりながら耳を疑う。白石の顔に疑問がそのまま表れたのだろう、藍沢は言葉を重ねた。
「酔ったお前は慣れないやつには荷が重い。飲みすぎるなよ」
辛辣な台詞を吐き捨てるように残して踵を返す。
心配……してくれてるのかな。眉間に皺が寄っていた。あれも本心かもしれないが、普段そういった場に好んで参加していない自分を知っていて気にかけてくれたのかもしれない。
断る猶予も与えてはくれなかった藍沢に、それでも嫌な気持ちはせず、白石はその背中を見送った。
「白石先生は救命つらくなったりしないの?」
投げられた質問に、白石の眉は困ったように下がる。つらくないわけがない、というのは聞かなければわからないのだろうか。つらければやめればいいとでも言うのだろうか。そんな単純な話ではないと、考えは及ばないのだろうか。
「みなさんは内科の先生なんですよね? そちらも時期によっては流行があって忙しいでしょう。大変じゃないですか?」
「あー、まあね。大変っちゃ大変だけど仕事だし、オレらが診て楽にしてあげられるなら」
「そうそう。けどま、こっちにうつされたらたまったもんじゃないけどな」
白石の様子を察した冴島のフォローに助けられる。
正直、楽しいと思える食事会ではなかった。交流会だからと笑ってプライベートなことまでも突っ込んで聞いてくる男たちに好感は持てず、飲み食いに逃げようにも気分の問題か美味しくも感じない。
ため息を吐きそうになって飲み込む。冴島に声をかけておいてよかった。救命のためだと思えばこそ食事会に参加しようとする白石を放ってはおけなかったのだろう、恋人がいるにも関わらずついてきてくれたのだ。そつなく会話をさばいてくれる冴島は、仕事中と変わらぬほどに頼もしい。
どうにか居酒屋を出られた瞬間には、ようやく解放されると安堵した。
「いやー、楽しいと時間が経つのが早いなあ」
こちらからしてみれば早く過ぎ去ってくれと願わずにはいられないような時間ではあったが、愛想笑いを浮かべて応える白石に相手は気をよくして肩に手をかける。
「白石先生、カラオケ行きましょうよ! 冴島さんも!」
「飲み会には二次会が付きものでしょ!?」
冴島が目の笑っていない笑顔を浮かべていることに気づきもせず男たちは盛り上がる。
「申し訳ありませんが、明日も仕事がありますから」
「そんなこと言わずにさぁ、三十分だけでもいいし!」
「恋人も待っていますので」
仕事があるとは断り文句だと伝わらない様子に、冴島が言い聞かせるような口調で言い放つ。男たちは興醒めしたように冴島を誘うことをやめ、白石にターゲットを絞ってきた。
どう断ったものか、と身体を引きながら迷っていると、冴島が隣からさり気なく合図を送ってきた。彼女の視線をたどると、
「……あ。」
迎えに来てくれるとは言っていたけど、何時になんて話はしていなかったのに。感情の読めない顔をした藍沢がゆっくりと歩いてくるところだった。
「今日は酔いつぶれてないな」
藍沢の開口一番の台詞は自分でも無愛想だと感じたのに、それなのに目の前にきた白石はやわらかく微笑んだ。
「ほんとに迎えに来てくれたの?」
「……そう言っただろ」
ほんのりと色づいた頬でうれしそうに笑うものだから、勝手にしたことではあるものの拒まれてはいないのがわかって安堵する。
視線を転じれば、見知らぬ顔がびくりと跳ねた。睨んだつもりはなかったが伝わるものでもあったのかもしれない。
「帰るか?」
問えば縦に揺れる首。
「冴島も。送る」
「いえ、私は大丈夫です。すでにタクシーを呼んでますから」
朗らかに笑う冴島は、藍沢が現れずともここで切り上げて二人して帰るつもりだったのだろう。彼女が一緒なら無闇に心配することもなかったか。
「えっと……白石先生……?」
「すみません、帰りますね。お誘いありがとうございました」
くだらない輩の声など無視すればいいものを。律儀に断りを入れる白石の腕を引くと、視線を上げる丸い瞳と目が合う。そこに自分が映っていることが確認できそうな距離感に、心臓が妙な音を立てているのを自覚する。
男たちを置き去りに、藍沢の自動車に乗り込んで走り出すと白石が深い深いため息を吐いた。
「ありがと」
微笑を浮かべてはいても、そこに疲れがにじんでいることがわからないはずもない。
「……交流できたのか」
「うーん、どうかな。あんまり収穫はないかも。コンサルお願いするにも、あれじゃあ信頼してっていうのはむずかしいな」
「そうか」
「脳外は藍沢先生がいるからいいんだけど、他で頼りにできそうなひとを見つけるのってむずかしいもんだね」
事も無げに。
「……俺は信頼に足ると?」
「もう、藍沢先生を信頼しないでどうするのよ。腕も知ってるし人柄だってわかってる。逆に私のこともわかっててくれるから、お互いにやりやすいと思ってる」
当たり前でしょうと笑う横顔をちらりと見て、こんな顔で自分のことを語ってくれるのかと思う。
他人の会話を盗み聞きしたような状態で勝手に心配し不安になり、余計なことをしたかと考えたもしたが、思わぬ収穫を得られた気分だった。
だから言うはずもなかったことが口からこぼれたのは、ほんの少し高揚した気持ちのせいだったのだろう。
「……じゃあ今度飲みにでも行くか? いつものところでたまたま一緒になるんじゃなく」
行きつけが同じだからともに飲むこと自体はあるが、こんな約束じみたことを話すつもりなどなかったのに。
ほろ酔いに染まった頬のまま、彼女はとてもきれいに微笑んだ。