信愛という名の

 今度飲みに行こう、と口からこぼれたら、思いもかけなかったほどの笑顔が返ってきて、約束になった。
 仕事ではなく私的な約束、プライベートの予定で約束を交わすなんて、いったいどれほどぶりのことになるのか。

 しかし、そんな話をして三日経ち、一週間経ち、話の続きさえできないままに時間だけが経過して。あれは自分の見た夢か何かだったのかと、もしくは酔った彼女は忘れてしまったのではないかと、社交辞令的なものだった可能性はと、不安に駆られた。

「お疲れ」
「あ、お疲れ様、藍沢先生」

 食堂で見つけた顔に、普段ならば近くの席には座っても同じテーブルにはそうつかないのだが、気がつけば自分から向かい合わせの席に腰を下ろそうとしていた。

「そうだ。ねえ、いつがいいかな?」

 藍沢が切り出すまでもなく、その口から当たり前のように話題に出され、思わず深く息を吐き出した。具体的な言葉はなくても理解する、自分が問おうとしていたことについてなのだと。――覚えていた。現実だった。
 まさか思い違いを疑っていたなんてことを知らない白石は、返事がないことにきょとんとしている。

「あれ? 飲みに行こうって話してたよね? 覚えてない?」
「いや。救命のほうが慌ただしいだろうからそっちに合わせる」

 頷く白石は楽しげだ。

 ――何を焦っていたのか。白石はこういう人間だ。
 裏もなければ、他人の裏を疑いもしない。見知らぬ人間のことくらいは別かもしれないが、近しい人間のことならばまっすぐに受け入れてしまう。

「やっぱり次の日は休みがいいよねー」

 どれだけ飲むつもりなのか知らないが、予定を検討する表情は不思議なくらいに笑んで見えた。





 二人そろって日勤だけ、翌日は休みという日程が偶然にもあり、日にちについては難なく決定した。
 どういうところがいいのかと聞かれた白石は「ひさしぶりにお好み焼きもいいなあ」と、思ったままをメールに記し、もし順調に退勤できなくてもすぐたどり着けるよう病院から遠くなく、二人の部屋の間に位置するお好み焼き屋で飲むことになった。

「藤川先生、あとお願いしてもいい?」
「おう。なんだ白石、大人しく帰るなんてめずらしいな」
「ちょっと約束してて」

 藤川にも告げなかったのはなんとなく。このあとも当直に入る彼に、飲みに行くなんて言うのは申し訳ないから。
 それでも少しばかり時間は押していて、更衣室に飛び込むと急いで着替える。フリル袖のTシャツにジーンズとシンプルな服装のため時間はかからない。簡単にメイクを直してカーディガンを羽織って、病院の外でタクシーを拾った。

「お疲れ様。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」

 先に来ていた藍沢は飲み物と、アテとしてだろうかとん平焼きとバター炒めを前にしていた。昼食をとって以降大したものを入れていなかったお腹が訴えをあげる。

「……お、美味しそうだね!」
「食べながらメニューを見たらいい」

 藍沢は腹の虫が鳴いたことを馬鹿にするようなことはなく、ただ恥ずかしさを誤魔化そうとする白石の様子におかしそうに小さく笑った。

 お好み焼きを食べて、焼きそばを食べて、サワーや果実酒なんかを飲んで。度数なんてそう高くないのに、ふわふわした感覚が生まれてくる。
 ひさしぶりのお好み焼きだからだろうか、とっても美味しくて、会話は弾んでいるなんて表現をしたら嘘になるくらいのいつも通りの二人なのに、ただ食べて少し話すだけが楽しく感じる。

「そろそろノンアルに切り替えたらどうだ」
「えーっ、お酒美味しいよー?」
「大分回ってるだろう。顔は赤いし眠そうな目をしてる」
「んー……ちょっとだけ眠いだけだよー」

 確かにペースがはやいような自覚はあった。藍沢の眉がわずかにひそめられる。その顔を見てさえ無性に楽しい。

「この間は酔いつぶれてなかったのに」
「だってあのときは美味しくも楽しくもなかったから」
「……今日は違うのか」
「ふふっ。それに酔いつぶれるなって言ったの藍沢先生じゃない」
「言われなきゃほとんど知らないやつの前でつぶれるつもりだったのか?」
「そんなことないよー。迷惑かけちゃうもん」

 さすがにそれくらいは自制しますよと言い切るものの、白石に向けられた目には疑いが浮かんで見えた。

「今日は藍沢先生とだから飲んでもいいかなーって」
「……俺には迷惑かけてもいいのか?」

 何度も一緒に飲んできた。それは単に居合わせただけという場合もありながら、結局はともに過ごしてきた。そんな彼ならば、酔いつぶれた自分を見捨てずにいてくれると信じられた。

「藍沢せんせはわたしに慣れてるかなぁって」

 ああ、ふわふわする。アルコールが回ってきたことを強く感じだす。でもまあ――藍沢先生だからいっか。





 身体の左右で揺れる足。背中に感じるのはしなやかな熱。
 藍沢は酔いつぶれた白石を背負い、夜道を歩く。
 タクシーでも呼ぼうかとは思いながら、ここからなら歩いてもそう遠くないなと判断した。一度背負ったら、どことなく手離し難くなった。

 ゆらゆら。揺れる。





 やっぱり藍沢せんせはやさしいね。

 起きたか。

 藍沢せんせなら、ゆるしてくれるかなっておもっちゃう。

 ……誰にでもやさしくなんかしないけどな。

 あまえてもいいなぁ……って。

 …………。

 ふふっ、背中ひろいね。

 ……今日だけだからな。

 んー。んふふ。

 酔っ払いが。

 ふふふ。

 言っておくが、誰でも彼でも送ってもらおうとするなよ。仕事ではいくらでもコキ使えばいいけどな。

 ふふ…

 聞いてるのか? お前は……、連れて帰っちまうぞ。

 ……ん、

 …………寝たのか? 白石?

 白石、首が絞まってる。苦しい。



 ああ、やけに苦しい。
 白石。お前といると心地良いのに、なにかが苦しくなる。これはなんなんだろう。
 冷静であろうと思うのに、普段の思考力が削られていく。自分が酔っているのかも判断がつかなくなる。
 ずっとその強さで掴んでくれて構わないのに――。