ようやく一段落ついて医局に戻ったのは、世間一般でいう夕飯の時刻をしっかりと過ぎた時間。日勤であったはずなのに、そう簡単に定時で帰ることなどできないのはもう身にしみている。
そういえば。白石は思い出して、ぽつり放置されたようなナイロン袋に包まれた紙箱を覗き込んだ。
「藍沢先生はドーナツ食べた?」
午前休をとっていた橘が、出勤時に差し入れとして持ち込んだものだ。カラフルなトッピングがかわいらしいものから、オーソドックスなものまで。昼間に見たときは種類の様々なドーナツが並んでいた。
デスクでパソコンと向かい合っていた藍沢から返る言葉は「いや」と短い。
「残ってるの一個だから藍沢先生どうぞ?」
「お前が食べればいい」
「いいの?」
藍沢はそのままの姿勢を崩すことなく淡々と作業を続けていて、最初から差し入れに興味はなかった様子だ。コーヒーもブラックを好むし、甘いものは嫌いなわけではなさそうだが得意なわけでもないようだとは、これまで見てきた経験から察せられた。ならば、と白石は箱に手を差し入れる。
最後の一個は緑がかったもので、抹茶が練り込まれているものなのだろうと一目でわかった。添えられていたペーパーナプキンでつまみ上げる。
「じゃあ遠慮なくいただくね」
先にいれておいたコーヒーをお供に、デスクについて一口。カリッとした歯ごたえに香ばしさ、抹茶のほんのり苦みと甘みの混じった味が口に広がっていく。
ドーナツなんて食べたのはいつぶりだろうか。甘いものといえば最近は手軽なコンビニスイーツが定番。
コンビニといっても侮るなかれ、今どきのコンビニスイーツはちょっとした贅沢気分を味わえるような、専門店よりは手頃ながらコンビニにしては高級、味はもちろん安定していて、ついつい何かしらのついでに買ってしまう。
それらとはまた違う、専門店のドーナツ。いつもと少し違うおいしさに白石の頬がゆるむ。
「やっぱり一口くれるか?」
そんな様子を見てか、会話を終え仕事に集中しているとばかり思っていた藍沢が口を開いた。二人の席は向かい合わせだ、間に様々な物が置いてあるとはいえ視界に入り込めば気にもなるのだろう。
「一口でいいの? 半分こする?」
「いや、少しでいい」
すでに直接口をつけてしまったが、まだかじったばかり。気にしないかもしれないとは思いながら、礼儀として口をつけていない部分を割り取り、新たなペーパーナプキンに包んで手渡す。
一口サイズというには大きいそれに藍沢と目が合うが「サンキュ」と一言。白石のデスクには分割されたドーナツが転がった。
お互いドーナツをかじりながらそれぞれデスクワークをしていると、
「お疲れー」
午前休だった分の仕事をこなしてまわっていたのだろう橘が姿を見せ、白石は改めて差し入れの礼を口にした。橘が二人の手元を見て笑う。
「あれー、お前たちもしかして分け分けしてるのか? 仲良しだなあ」
「最後の一個だったんです」
「そうなのか? 人数分買ってたはずなんだが」
首を捻る橘に、藍沢が手を止め顔を向けた。
「そういえば横峯が雪村と食べると言って持ち出していた気がします」
「ああ、なるほどね。スタッフステーションにも差し入れといたんだけどなあ」
確かに白石も同じ紙箱を見ていた。横峯も目にしていたはずだが、どちらから取り出しても同じだと残数など気にしなかったのかもしれない。
つまりはスタッフステーションに行けばもうひとつ残っているのか。いや、この時間だとすでに誰かの腹のなかか。どちらにせよ、そこまでして確保しようなどとは思わない。
それよりも随分と仲良くなった様子の二人が微笑ましい。自分たちが親しくなっていった過程よりずっと早いのではないだろうか、横峯のあの性格の賜物か。
「白石、俺にも分けてくれないか?」
「えっ。口つけちゃってますし」
「構わないさ。むしろ白石の食べかけなら喜んでいただくよ?」
何を思ったか橘がそんなことを言い出し、声の調子や顔を見ればそれが冗談だとわかる。それくらいの付き合いをしてきた。しかし、
「……藍沢、お前変態だと思っただろう。突っ込めよ!」
変わらない表情で一瞥をくれる藍沢に、橘は息を吐いた。
「そういうのは緋山か藤川あたりに期待してください」
「そんなんじゃモテないぞー?」
「必要ありません」
「相変わらず真面目だなお前は。白石も遊び心のある男のほうがいいだろう?」
思わぬところで飛び火だ。突然話を振られた白石は首を傾げる。
遊び心のある藍沢。とぼけた会話に突っ込む藍沢。想像してみるとつい眉間に皺が寄ってしまう。有り得ない。
「ツッコミ入れる藍沢先生なんて、藍沢先生じゃないじゃないですか。そんなの怖い……あ、ごめん、悪い意味じゃないよ!?」
「妙な弁解はいらない」
すでに完食済みの藍沢は飲み物を欲してか給湯室へ消えていく。
「うちのスタッフは仲が良くてなによりだ。二人とも当直じゃないだろう、早く帰って休めよ」
橘も奥に引っ込んでいき、残された白石はただ抹茶味を咀嚼した。コーヒーとの相性もいい。
こうしておいしい休憩を得られるのも、馬鹿げた会話ができるのも、落ち着いた時間のおかげ。ほっと一息落ちる。
カップを片手に戻ってきた藍沢が席につくのを、書類を見つつなんとなしに目をやった白石は、少々考え込む様子に首を傾げた。
「……遊び心があるほうがいいのか?」
「ん?」
ちょっと気にしていたのかと笑みがもれる。
「遊び心のある大人は素敵だなと思うけど、藍沢先生にそういうのは求めてないし」
むしろ自分がそうなれたならという思いならある。真面目、優秀と言われるのは嫌いではないものの、味気ないと言われているようで。
視線が合う。彼に求めるのはこの眼差しだ。姿勢を正したくなるような力強いその目。
「そのままの藍沢先生が一番いいと思うな」