急患急変の落ち着いた夜半、そろそろ一度休もうと仮眠室に入った白石は、照明のスイッチを入れてから、そこに先客がいたことに気づいた。
――藍沢先生。
今日は当直ではなかったはずなのに、帰りそびれたのか。そういえば灰谷と急患に対応している最中、居残って手を貸してくれていた藍沢のPHSが鳴り脳外へと向かう彼を見た記憶がある。白石と灰谷はその後もICUでの急変もあり慌ただしい時間を過ごしていた。
二段ベッドの下段で仰向けに眠るその顔は穏やかで、目覚めているときの苛烈さはまったく感じられず、ただ静かな凛々しさだけがそこにある。
――ああ、そうだ。
不意にどうしようもない思いに駆られる。
年が明けたなら、彼はいなくなってしまうのだ。ともに過ごせる時間はあとどれくらいなのか。もうすぐ、目の前から、隣から、いなくなる。
トロント大レジデントの話を聞いたときから、その背中を押したときから、西条が藍沢に決めると言ったときから、……決まったのだと、本人と話したときから。わかっていたことだった。
それが、わかっていたつもりだっただけなのだと、思い知る。突き上げるようなこの感情はさみしさか、切なさか。掴めそうで掴めない。ただ、胸が軋む思いがして。
ベッドに静かに歩み寄り、腰を下ろす。
布団から出ている手が目を引く。自分のものより色濃くたくましい腕、無骨でありながら細く長い指。
いつもいつも自分たちの先陣に立ち目の前を切り開いては、背中を押し、支えてくれた手だ。
そっと、触れる。あたたかい。彼そのもののようだ。不器用でわかりにくい、やさしさ。
このあたたかな手を離すのだ。あとほんの少しで。
「……泣いてるのか?」
その手がゆるりと持ち上がり、ハッとした白石はいつの間にか瞼を押し上げていた藍沢と目が合う。寝起きのまだわずかに虚ろな目付きで見上げられて、小さく息を飲む。目元に触れる指先。視線が絡め取られて動けない。
「泣いてないよ。寝惚けてる?」
「そうだな、寝惚けてるのかもしれない」
藍沢の、頬に触れたのとは逆の手のひらが白石の腕を捉える。次の瞬間にはそのまま引かれ、気がつけば白石は藍沢の上に乗り上げていた。倒れ込んだ体勢を起こそうにも、腰にまわされた腕で固定されほどけない。
白石は突然のことに慌てるのに、藍沢は喉の奥で笑う。
「ちょっと、寝惚けてるにしてもタチ悪いよ!」
そうだな、と答えるくせに離してはくれず、あまりの状態に恥ずかしさを感じながらもそれさえ通りすぎて白石は抵抗を断念する。
「……ほんとうに夢なら何をしても許されるんだろうけどな」
耳元に落ちる掠れたつぶやきは何を意味しているのか。
一瞬力が込められた気がしたが、ため息を吐いた藍沢は腕を解放して起き上がる。
「俺はもう起きる」
ベッドに座り込む白石の横を抜けて仮眠室を出ていくその背中を呆然と見送る。見慣れた後ろ姿なのに何故か息が詰まった。
「ゆっくり寝ろ」
閉じていくドア。
鼓動がどうやら正常ではないと頭の片隅で考えながら、取り残された白石は一人困惑を抱え込むこととなったのだった。
翌朝明らかな寝不足顔をした白石を見て、藍沢は眉をひそめた。
「悪い」
「え!?」
「昨日変なこと口走ったから」
目の下に浮かぶクマに触れる藍沢。それが白石を一層動揺させることになったのは、意図したことかどうなのか。