高い音色が鳴り、アパートの下まで帰り着いたばかりの藍沢は、足を止め億劫に思いながらジーンズの後ろポケットからスマホを引っ張り出す。
着信、白石恵。
その名前を見つめ、意識が少し鮮明になる。そうだ、半刻近く前にどういうわけか自分が掛けてしまったのだ。繋がらず、留守電に切り替わる前に切った。
「藍沢先生? ごめん、出られなくて」
通話をタップして耳にあてると、未だ馴染んでいる声が届く。やわらかな落ち着いた声音。
「どうしたの?」
心配そうな、不安そうな、そんな響きを孕んで聞こえ、徐々に冷静さを回復させていた思考で、ああ、と思う。私用で電話などしたことがあっただろうか。連絡先を交換してはいても、連絡したところで仕事についての伝達事項くらいだったように思う。
「……いや、」
酔った勢いで掛けてしまっただけなのだと言ったら怒るだろうか。心配性の彼女のことだから、怒るより心配するほうに天秤は傾くのか。
どちらにしても素直に白状できず、藍沢は黙り込む。
「藍沢先生?」
なかなか話し出さない藍沢に、白石の声は怪訝な色合いを見せ、そんな顔を思い浮かべても胸中を掠めるものを感じて、見ようと思わなかった弱っている自分をつい自覚してしまう。
「さっきまで飲んでた」
「そうなんだ。恒夫のとこ?」
「ああ」
「藍沢先生もすっかり常連だよね」
仕事の話ではないと察して、白石の雰囲気が緩まったのが伝わる。
この声を聞いて安堵に似た心地になるとは、出会った頃には思いもしなかった。昔は緊張からか、か細かった声。今では仕事に対する自信がついたためだろう、随分と落ち着いた声になった。今思えばあの繊細さを感じさせる声も嫌いではなかった。懸命さが、必死さが、悪くないと思った。
「一人で飲んでたの?」
「ああ」
「恒夫のうれしそうな顔が目に浮かぶ」
なんでもないような話を続ける白石は、何かを感じ取っているのだろうか。藍沢の心が、摩耗してしまいそうなことを。
脳外科は救命に比べれば安定した現場だ。きちんと整えられた部屋で向き合える、時間制限はあっても、一分一秒がすぐさま命取りになることはそうない。
しかし脳は未だ判明していない部分の多い領域だ。どれだけ器材を揃えて計画を立て、準備万端挑んだとしても、後遺症が残ることも少なくない。
それはそれと割り切っているつもりでいても、全力を尽くしていても、神経が擦り切れる思いを何度も繰り返す。
「ね、恒夫、また藍沢先生に抱きつきに行ったでしょ」
「……あれはなんとかならないのか」
「イケメン好きだからねー。好みなんでしょ、藍沢先生の顔」
「うれしくない」
軽やかに笑う声が、沁み込んでいく。
磨り減った心が、少し、埋められていくような。
「白石?」
スマホを遠ざけたか手で覆ったのか、小さくくしゃみが聞こえた。
「ごめん、湯冷めしちゃった」
電話に出られなかったのはどうやら風呂に入っていたからなのだと知れる。上がって着信に気づき、すぐさま掛け直したのかもしれない。真面目な彼女のことだ、大いに有り得る。もしかしたら髪もまだ乾かしていなかった可能性もある。
「ばか、俺の話なんてどうでもいいから」
「どうでもよくはない。藍沢先生からの電話よ? 次はあるのかないのかもわからないもの」
相手は私じゃなくてもいいのかもしれないけど。白石のつぶやきは、藍沢に聞かせるつもりのものではなかったのかもしれない。藍沢自身、何故白石に電話なんて入れてしまったのかよくわからない。
それでも。これだけは確かだった。
「……誰でもよかったわけじゃない」
それが何故白石だったのかはわからないが、彼女でなければ誰と話したかったかなんて考えつきもしない。
そう。話したかったのだと、そこでようやく思い至った。
「いいからもう休め」
「うーん、……ね、藍沢先生、明日は仕事?」
「ああ」
「もしかしたら会うかもだね」
脳外科の藍沢と救命の白石が会う。それが意味するのは脳に疾患のある急患が出るということで、不吉な予言に等しいのだが。
いや、もしかすれば単に擦れ違う可能性もあるのだから一概には言えない。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
どことなく名残惜しく通話を切る。それでも耳に残る心地良さを携えて歩き出す。部屋に着く頃には不思議と気持ちが安定していた。