親鳥は籠のなか 1


「挿管します」
「バイタル安定しました」

 ドクターヘリは今日も飛ぶ。青空を背景に、初フライトのフェローを緋山は冷静に見遣る。
 フライトドクターを目指すべく、翔北の救命センターに着任したばかりの新人だ。他所でERを経験済みということだが、それにしても、だ。

「……随分と落ち着いてるわね。昨日もそうだったけど」

 声を掛ければ、患者に向けられていた視線が上がる。その顔はまだあどけないとさえ見える若い医師だ。

 彼は前日、ヘリ搬送されてきた急患に同期とともに対処した。その様子を見た橘から早速ヘリに乗せるよう指示が出たのだ。――自分のときはそんなにスムーズに乗せてはもらえなかったのに、と思うと少々、いや、なかなか複雑な気分にもなるが。
 しかし彼は初めての現場でも適切な対応ができていた。落ち着いて、冷静に。

 医師としての腕には、当時の自分だって負けているつもりはないが、この肝の座り具合いには緋山も舌を巻いた。初フライトで焦ってしまった過去がよぎるものの、そんな話をしてやる必要はない。

「あんた名前なんだっけ?」
「真坂です。改めて、よろしくお願いします」

 にこりとした笑顔が印象的なフェロー、真坂謙也のフライトデビューだった。

*

 医局に残っているのは若手シニアドクターだけになっていた。フェローにはまず日勤から慣れさせようと今は様子見のため、今頃はすでに帰宅しているはずだ。

「今年は使い物になりそうだな!」

 当直の藤川が買い置きのカップ麺をすすりながら一人大きくうなずく。眼鏡がくもるのが気になるのか、位置を直しながらも、食べるもしゃべるも口は止まらない。

「そうだね。葛西先生も真坂先生も意欲的」
「森本先生も異動しちゃったし、猫の手も借りたいって感じだもんな」
「ほんとそれ。人手がないから育てなきゃなのに」

 彼らがフェローだった頃のシニアドクターは、黒田、森本、田所と三人もいなくなってしまった。森本は他科に在籍しているが、あとの二人は救命どころか翔北にもいない。黒田の後釜としてやってきた橘と、当初から指導をしてくれていた三井を残すのみ。

 白石、緋山、藤川を含めた現在のシニアは五人。彼らが着任したときにはシニアが四人だったことを思えば人数的には少なくはないものの、まだベテランとは言いがたい三人からしてみれば、大規模災害などが起きた場合どれだけの負傷者に対処できるか不安感が残る。

「昨年はなぁ。まさか全員逃げ出すなんて。マジか……! って感じだったな」
「そんなスパルタでもなかったよねぇ? 橘先生やさしい顔してやることたまにエグいけど」

 うなる藤川に、おにぎりにかぶりつく緋山も同意した。
 一年前もフェローを受け入れたのだ。彼らにとって初めての後輩、指導すべき対象だった。しかし、そのフェローは一人減り、また一人と、全員が辞めてしまった。

「ま、ヘリで飛んだ現場で怖気付いたんでしょ」
「……でもその気持ちはわかるよ。私も初めてのフライトで何もできなかったもの」
「だからってさ、助けたいとか次こそはみたいな気持ちって出てこないもん?」

 少なくとも白石も緋山も二度目からは必死に対処した。救命にあたった。自分で選んだ仕事なのだ。

「気合いがたんねーんだよ、気合いが」

 一人遅れてのフライトデビューとなった藤川としては、フライトに対しての思い入れは人一倍あるのだろう。麺とスープとを飲み干すようにして、カップをデスクに放り投げた。

*

 ふらりとスタッフステーションにやってきた姿に、緋山はつい呆れた表情を浮かべる。それは救命から異動していった森本だった。相変わらず軽薄そうな顔をして、緋山の着席しているカウンターへと身を乗り出してきた。

「この間からフェロー来てんでしょ? どうよ、どんな感じ? 昨年のやつら一年もたなかったもんなあ」
「森本先生、暇なんですかー? そんな、ことあるごとに顔出してこなくても」
「なによ、来ちゃいけない? 古巣のことは気になるもんでしょ」

 気遣ってくれるのは有難いのだが。それなら救命にいてくれればよかったのではないだろうか。
 奥さんの、ガンガン外に行くタイプより留守番してるくらいのタイプのほうが好ましいなんて言葉に翻弄されて、現場に出向くことのない他所へ行ってしまうなんて。フライトしなくても初療室で待機してくれているだけで心強く思えたというのに。

「奥さんのことだけ気にしてたらいいんじゃないですか?」

 藤川のカルテをめくりながらの投げやりな言葉に森本は目を輝かせる。

「あ、それも聞いてほしくてさ。いやぁ、彼女もついに妊娠……ってちょっと聞いてよ」

 幸せオーラ全開なのはめでたいことながら、その背後を通り過ぎる冴島の冷ややかな視線は感じないらしい。「仕事してください」とばかりの語る一瞥に、藤川は背筋を伸ばしてカルテを手にHCUへと向かった。
 森本の手が宙をさまようなか、ラウンドから白石とフェローが戻ってきた。

「あれ、またいらしてたんですか?」
「お疲れ様です」

 目を丸くする白石と礼儀正しく頭を下げるフェローに、森本はにんまりと笑みを浮かべる。

「やっ! ボーイッシュガール! お疲れ白石!」

 緋山の呆れ顔も白石の苦笑も気にせず、森本は満面の笑みで小柄なフェローと向き合った。

「えっと……森本先生!」
「正解っ!」

 ビシッと指先を突きつけるようなポーズで名前を出され、同じくポーズで返した森本はご満悦だ。名前の記載されたIDを身につけていることを忘れているのか単なるノリなのかは判別がつかない。

「救命はどう? ヘリはもう乗った?」
「あ、一回だけ」
「そう。早いね。まあじゃんじゃん乗ったほうがいいよ、習うより慣れろってね」

 すでに他人事なこともあってか、以前よりさらに軽々しい口調だ。

「森本先生お暇なんですか?」
「ちょっとぉ、白石までそれ言う? 気にかけて様子見にきてあげてんでしょーが」
「あは、ありがとうございます」

 明らかに愛想笑いになる白石と、緋山が頬杖をついたまま冷めた目で見上げていることに、森本はようやく気づいて若干口元を引きつらせながら笑う。
 視線をさまよわせながら、フェローにグッドサインを送る。

「がんばんなよ、葛西先生!」
「ありがとうございまっす」

 まるで体育会系のノリで返すフェローに、森本は二度三度うなずいて踵を返すのだった。



 今年のフェローシップは葛西優菜と真坂謙也、男女一名ずつの受け入れ。白石が正式にスタッフリーダーになって初めての出来事だった。