親鳥は籠のなか 4

「白石先生、ICUの柴田さんなんですけど、」

 真坂は以前に比べ独断を控え白石の指示を仰ぐようになった。もちろん自分の力量で対処できることは自分でこなす、それでも小さな不安を解消することを心掛けているように見えた。もともとが少々自信過剰気味だったので悪い傾向とは言い切れない。時間が経てばまた自信を回復するのだろうと、追及する者はなかった。

「そういえば真坂先生」
「なんですか?」
「この間転科した東さんが、真坂先生にありがとうって伝えてくださいって。とってもよくしてくれたからって」

 にこやかに話す白石のあとをついて歩く真坂。その姿はまるで雛鳥のようで、もともと優秀な救命フェローと話題にのぼるようになっていたところにその様子、噂として広まるのも早かった。

「すっかり懐かれちゃって。なあ?」
「あいつ、そういうタイプには見えなかったけど。自己中小僧だと思ってたのにあんなついてまわるんだ」

 藤川は微笑ましげに、緋山はある種の感嘆をもって見遣る。

「さっすがスタッフリーダー、ってか?」
「何気に人たらしだよね、白石って」
「ああ、わかる! でも自分では気づいてないやつ!」

 自尊心の高い後輩を付き従える。それも白石の手腕によるものとでも言うのか、手懐けるつもりもなく懐柔したと思える光景。それを険しい顔で見つめる視線に、気づく者はまだなかった。

*

 何気なく滑らせた視線、引っかかりを覚えた冴島は流れるような動作を止めて視線を戻す。何が気になったのか、違和感の正体を探るべく、ゆっくりと周囲を見渡した。
 何の変哲もないいつもの風景。スタッフステーションに医師と看護師がいて、カウンターの向こうを患者やその家族が行き交う。奥のHCUに見える横顔は白石で、こちらからフェローの二人が時折目で追っている。

「だからさ、そういうのってどうなのかと思うわけ」
「君には関係ないだろ」

 小声で諍う声は喧騒に紛れてしまいそうなほどで、それでも冴島には軽視できない空気が感じられた。それも、視線の先を理解すれば余計に。

「先生方どうかされました?」

 あえて穏やかに尋ねると、ハッとした二人が冴島を見上げる。

「なんでもないです、すみません」

 にこりと笑ってかわす真坂と、それを不満げに見遣る葛西。日頃の様子を見ていれば彼らが彼女に悪感情を持っているとは思えないが。
 冴島が目を逸らすことなく見つめていると、真坂は「ラウンド行ってきます」と背中を見せ、葛西がやるせなさそうな顔でそのあとを追う。

「えーなになに、青い春?」

 いつの間にやって来たのか、藤川が並んで去りゆく二人に目を向けていた。

「……さあ。そういうかわいい話ならいいんですけど」

 冴島はため息を落として思考を切り替えると、藤川に冷めた声音で「仕事してください」と告げるのだった。

*

「また顔見せに帰って来られない?」

 告げられる言葉に屋上でそれを受けた白石は、息を詰め強く目を瞑る。
 電話の声に滲むのは疲労か諦念か。実家からの連絡は最近徐々に増えていて、内容を聞くまでもなくそれは父親の病状の進行を教えていた。

「……ごめん。この間帰ったところだし、次は月末かな」
「そう。まあお仕事なら仕方ないものね」

 ガンを患っている父親のことは当然心配で、父親が平気な顔で動き回っているうちはどこかしらで会うこともあったし、思うように動けなくなってからは暇を見ては白石が実家に戻ることで様子を見に行くようにしていた。

 互いに医師であり、いずれ訪れるであろう別離に覚悟はあるつもりで、それでもそんな日は来なければいいと、なるべく遠くの未来であってほしいと、思わずにはいられない。
 それに加え、看病をし見守り続けている母親のこともある。気丈なひとだから何事もなく振る舞っているが、それも少しずつ崩れてきている。それがわかるから、離れた場所にいることを苦く思う。

 通話を切って落ちるのは深々としたため息。
 可能であるなら、いずれ来たる別れのときまでそばにいたい。これまで親孝行らしい親孝行なんてなにひとつできていない。このまま死に目にも会えないとしたら……考えるだけで身体が震える。

「……ごめんなさい……」

 個人の感情はそうであっても、仕事を放り出すことなどできはしない。駆けつけたところで当の本人から叱りを受けるであろうことも想像がつく。
 父親のようにいつでも医者でありたい。親から与えられた愛を返すただの娘でありたい。相反する想いが白石のなかを渦巻いてせめぎ合う。

 ただでさえこのところ居心地の悪さから堪えようのない焦りを生じているのだ。仰いだ空は薄曇り。青空が透けて見えるのに、夏の日差しが遮られどことなく暗く感じるのは気分のせいか。

 毎日駆けずり回って、それでも救えない命の重み。救えたと思っても予断を許さないことも多く、経過を注意深く観察してはいても前兆に気づけないまま急変してしまうこともある、去る瞬間はあまりに呆気ない。
 誰より飛んで、全力で治療に挑んでも。思いの分だけ命を救えるとは限らず、救えた命から死を懇願されることもあり、自分で選んだ道から踏み外したくもなる。
 それでも、苦くて飲み込めないような感情を抱えても、逃げ出すことは許されない。父親も、恩師も、誰より自分がそれを許すはずがない。

 せっかく今年入ったフェロードクターは優秀で、戦力と数えるに抵抗のない人材を得られた。本人たちもやる気充分、フライトドクターとして残ってくれるかはまだわからなくとも、認定までに先輩として伝えられるものは何でも伝えておきたい。

 こんなふうに挫けそうになっている場合ではないのだ――。

*

 藤川と緋山が顔を見合わせる。怪訝な眼差しに、向けられた本人は気づかない様子でフェローに微笑みかけている。フェローたちも真剣な表情や笑顔で指示を受けて応え、それは彼らがフェローシップでやって来た当初からの光景と何ら変わらないはずだった。

「ねえ、どう思う?」
「顔色ヤバイよな」

 廊下の自販機で買った飲み物に口をつけ緋山は顔をしかめる。

「ここんとこ急患に急変にって立て込んでたけど、それにしてもさあ」
「苛つくなよ。心配なのはわかるけど」
「別にあの子のこと心配してるわけじゃないわよ。もしこれで倒れられたら迷惑だって話」

 素直じゃねえなぁ。藤川は口に出したなら反論されるのだろう感想を飲み込んで肩をすくめた。
 出会いはライバルで、決して友達とは呼べるような関係ではなかった。それでも同じ戦場をくぐり抜けた同僚とは、他の誰とも違う絆が生まれている。そう感じているのは藤川だけではないはずだ。
 緋山が手にしたそれを噛み付くように飲み干す。

「まあでも、マジで倒れかねないように見える、か」

 慌ただしい数日を過ごしたのは二人も同じで、なのに彼女の顔色は比べようもない。いつも通り振る舞い何でもない顔をしているが、医師であり、何より毎日をともにする彼らの目を誤魔化せるはずもない。

 それでも問い詰めたところで彼女の答えはおそらく予想と違わないのだろう。「何でもないよ」「大丈夫」と。