親鳥は籠のなか 5
――視界が染まる。
赤。広がる。この手を、腕を染める。赤。赤。赤。どこまでも留まることを知らず広がりゆくそれ。
どろりと粘度のある感触とともに、生温かさが全身に侵食していく。錆びたような臭い、詰まる息までもがその臭いで身体のなかを循環し充満していくようで。喉の奥を締め付けた。
耳障りな悲鳴は自分のものだと、どこか冷静な脳で考える。
――目まぐるしく移り変わる光景。雑音。
親の七光りで生きその繋がりでやってきた小娘だと。面倒事を揉み消すために逃げてきた愚か者だと。医師のくせに体調管理もままならずヘリにも乗れない名ばかりのフライトドクターだと。名医の道を絶った医師にあるまじき医師であると。
真っ赤に染め上げられた視界のなか、声なき声がささやく。耳の奥で跳ねる雨音に掻き消されることもなく、それは静かに責め立てる。
「……っは、……」
目が覚めて、止まっていた呼吸が再開される。浅い息を忙しなく繰り返し、次第に落ち着いていく。ベタつく肌が赤く染まっていやしないかと、目の前に腕を持ち上げてみても、そんなはずもない。じっとりとしているのは汗だ。全身が気怠く、重い。
見慣れた天井を、ぼんやりと焦点の定まらないまま見つめる。いつの間にか明るくなりだした部屋のなかは、寝られたつもりのない目には少しばかり眩しくて、角膜が刺激されたせいで涙さえ浮かんできそうになる。
瞼を下ろし、深呼吸。大丈夫、何でもない。
「……よし」
一人気合いを入れて起き上がれば、タイミングを見計らったようにアラームが鳴り出した。
大丈夫。今日もいつも通り仕事をこなすだけだ。
大丈夫。夢見の悪さなど、この数日で慣れたのだから。
*
「白石先生、体調悪いですか?」
真坂の声に白石の肩がわずかに跳ねた。窺うように問う真坂は心配げに表情を曇らせていて、白石はやわらかな笑顔を返す。
「どうして? 真坂先生こそ疲れて見えるけど大丈夫? ちょっと休憩してくる?」
「俺じゃなくて白石先生が休むべきなんじゃないかと思うんですけど」
やわらかいのにぎこちない、そんな表情を浮かべる白石に、気遣うような眼差しを送るのは彼だけではない。つい先ほどコンサルで呼ばれ処置を終えたばかりの藍沢も怪訝な顔で白石を見ていたし、橘や三井も彼女に声をかけていた。
それでもやはりと言うか彼女は頑なで、何事もないふりをして動き回るその足を止めようとはしない。白石のことを何年も見ている分、言っても無駄かと引き下がるしかなかった。
真坂だけは心配してその後ろをついて回っては声を掛け続けているが、その様子に白石は眉を下げて困ったように笑うばかり。
「白石先生! ちょっとお願いしたいことがあって!」
そんななか、ラウンドからスタッフステーションへと戻ったところに駆け寄ったのは葛西だ。探していたのかわずかに息が上がった彼女は、白石の腕を掴むとそのまま促すように手を引く。
白石は首を傾げながらも葛西の形相に切迫したものを感じ取り、手にしていたカルテファイルを閉じると棚に戻した。
「何かあったらお願いね、真坂先生」
白石がPHSを指し示して告げる。
思わずといったふうに伸ばされた真坂の腕を遮るように、葛西が白石をカウンターから外へと引っ張り出した。
「葛西先生? 何があったの?」
手を引かれるままに足を進めて問いかける白石に、葛西は情けないような戸惑うような表情で振り返る。
どこへ向かうかと思えばたどり着いたのは医局で、普段明朗な葛西らしくなく言葉少なに仮眠室へと押し込められる。
「……葛西先生?」
「ごめんなさい、白石先生。やっぱり顔色悪いから」
「何事かと思ったら……そっかぁ。でも私のことなら大丈夫。真坂先生にも何度も言われちゃった。フェローに心配かけるなんて駄目なリーダーでごめんね」
自嘲する白石に、葛西は顔をしかめて俯いた。小柄な葛西が下を向いてしまえば、白石にその表情は上手く拾えない。
「……何も聞かないでしばらく休んでてもらえませんか」
お願いしますと小さな声で続けられる。名前を呼んでみるものの、葛西はただ頭を下げドアを閉める。
残された白石はため息を落とすとおとなしくベッドへ腰掛けた。大丈夫と口にする言葉に嘘はないつもりで、それでも同僚たちに心配させている自覚はあった。眠れないまでも少しばかりゆっくりしておこうかと靴を脱いでベッドへと上がり、壁に背中をもたれかけさせた。
――閉じられた世界で、頭の片隅に忍び寄る静かな雑音が聞こえる。