親鳥は籠のなか 6

 ドクターヘリに補充をしようと備品置き場に足を運んだ冴島は、人影に先客の存在を知る。一瞬歩を止めるが、ストレッチャーに腰掛ける姿はよくよく見知ったもの。入ってきた冴島に気づいていないのか、ぼんやりとした眼差しは足元に向けられており、身じろぎもしない。

 青白い顔だ。もともと色白のひとではあるが、室内の薄暗さを差し引いても冴えない顔色に、思わず声をかけるのを躊躇してしまう。
 息をひそめて歩み寄れば、力なく項垂れた首がゆっくり持ち上がった。

「……あ、冴島さんか」

 薄く浮かぶ微笑。その虚ろな表情に息を飲む。

「大丈夫……じゃないですよね」

 出会った当初もぎこちない微笑みを貼り付けていたが、今のそれは比ではない。手を取ればひやりと冷たく、冴島の顔が歪んだ。白石の前に屈み込みその両手を握る。

「白石先生、何があるのか教えてもらえませんか」

 何かがあったのは既に確定した事実に違いない。それが何であるのかがはっきりしない。白石は目の前にいるというのに、手が届かない場所にいるようでもどかしい。

 冴島は院内にアンテナを張り巡らせているつもりだ。白石たちよりも翔北歴は長いし、それなりに上手く立ち回ってきたはず。様々な医師や患者を見てきて観察眼にも自信がないわけではない。
 空気の変化を感じ、警戒すべきかと判断を下そうとした矢先にこれだ。動くのが遅かったのか、知らぬ間に彼女は追い詰められていたのか。
 白石が緩慢な動作で首を振った。

「なんでもないよ。ごめんね、すぐ仕事戻るから」
「いいえ、今日はこのまま帰りましょう。みなさんには私から伝えておきますから」
「だいじょうぶ、大げさだよ。昨日だって途中で仮眠させてもらっちゃったし。ちょっと気分はよくないけどそれだけだから」

 深く、それでいて弱い息を落として、白石は腰を上げる。足元はなんとかふらつくことなく、彼女は背を向けて出ていく。

「……大丈夫なわけないじゃない」

 折れてしまいそうな背中。見送るしかない冴島は顔をしかめ、自分の手を強く握り締めた。

*

「白石先生のこと、お願いしたいんです」

 コンサル後の患者の経過を確認しようと顔を出した救命のスタッフステーションで、冴島に呼び止められたかと思えば、一体。ひと気のない通路へと誘導された藍沢は、その台詞に訝しげな表情を浮かべる。
 確かにここ最近の白石の様子はおかしいと感じていた。危なげな雰囲気さえあり、何があったのかと、問いただしていいものかとよぎることもあった。しかし、だ。

「白石のこと?」
「休むよう、藍沢先生から説得してくださいませんか」
「何故俺が」

 藍沢はすでに救命センターからは部外者となった身だ。彼を除いた同期が揃っているのだから、自分たちでなんとか言い聞かせたらどうなのかと。
 表情から感じ取ったのか冴島が静かに首を振る。

「私たちが何を言っても聞き入れてくれません」

 それは藍沢にしてみても想像に難くない。
 白石は優秀で真面目で、豊富な医療知識から状況により柔軟に処置を検討できる医師であり、しかしこうと決めたら、思い込んだら、誰より頑固だ。それはもう、仲間内での共通認識である。

「橘先生に、」

 思いつきを口にし、藍沢は自ら言葉を飲み込む。

「……言われたら、頑なになるだけか」
「そうですね」

 あなただってよくご存知ですよねと、言い放つ冴島からは、すでにその頑なさに手を焼いていることが窺えた。

 大丈夫だからと。咄嗟に返すのは白石の癖だ。悪い癖だ。どれだけの躾を受けて育てられたのか、彼女はおっとりとしてさえ見える容姿に反してしっかり者で、お嬢様育ちとは思えないほどに、一人で立っていなければならないとそうと思い込んでいる。
 懸命に地面を踏み締めるその姿は、時に頼もしく、しかし時に、痛々しい。

 スタッフステーションから少しばかり離れたそこから、通り過ぎゆく横顔が一瞬視界に入り込む。直近の記憶と違わず、普段の白さを超えて蒼白の手前といった顔色。
 藍沢は深くため息を落とす。

「……とりあえず捕まえてくる」
「お願いします」

 あからさまに胸を撫で下ろす冴島の姿は、藍沢の眉間に皺を刻ませる。彼らが言って聞かないものを、藍沢が代わって言ったところで素直に聞くとも思えない。なのに説得を依頼しただけで安堵するとは、どれだけ白石の現状に思い悩まされているのか。
 藍沢は、ラウンド中の白石がフェローに指示を出して離れたタイミングを見計らい、自販機コーナーへと連れ出した。

 カフェオレだったか、と記憶を頼りに彼女の好みに見当をつけて買い与えれば、ベンチの上、両手で缶を握りしめ、下がった眉で白石は笑う。笑顔とは程遠い、弱った表情で。

「……帰れって、言う?」

 呼び出された理由も、藍沢が何故そうするのかも、大方予想がついているのだろう。

「そうだな」
「……大丈夫だよ?」
「お前はすぐそう言うから」
「……そうかな」

 白石が手のなかへと視線を落としたのをいいことに、藍沢は缶コーヒーに口をつけつつ彼女を見下ろして無遠慮にも観察する。

 見かけるたび顔色の悪さ、覇気のない表情にざわついていた胸中は、改めて目の前にした本人を見て、じわりとした何かを滲ませる。座らせていなければ倒れるのではと思うような、記憶よりも薄いと感じる肩、か細い手脚、もともと痩せていた彼女の頬はこけて見え、思わず眉根が寄るのがわかった。

「お前はどうしたいんだ」

 いつまでも缶を見つめているものだから、取り上げて開栓して返す。こくりと小さく飲んだ白石は、ゆるく息を吐く。

「……がんばりたい?」
「頑張ってるだろ」
「そうかな……」
「そうだろ。他には?」
「……ひとつでも多く、救いたい」
「そうだな。医者だからな」

 救えと、飛べと、……言われたという言葉は今も彼女を縛っているのか。一時期バランスを崩すほどに思い詰めていた姿が思い出される。
 しかし白石が充分責任を果たし恩に報いていることは、これまでの実績から明らかだ。逃げることなく命に向き合い、スタッフリーダーを任されるまでになって。

「だから、帰らない」
「だから、帰るんだ」

 手元から、視線が上がる。
 いつも前を向く大きな目は、いつだって澄んで見えたのに。今は充血とクマが目立ち、手が伸びそうになって握り込む。

「そのままの状態だとお前は医者じゃなく患者になりかねない。複数人のドクターとナースがそう判断している。わかるな?」

 揺れる眼差しは、しかし外れることなく藍沢を見つめた。

「……今の私には、救えるものも救えない……」

 白石ならばきっと倒れる瞬間まで他人を救うのだろうと藍沢には思えたが、そんなことは口にしない。今は救命スタッフから押し付けられた役割を果たすのみだ。

 泣いているようにも微笑っているようにも見えるぎこちない顔に、妙に息が詰まった。それでも白石が帰宅を了承したことに、藍沢は肩の荷を下ろした気分で誰にともなく一人頷く。

 陰から見つめていた葛西が思い詰めたように踵を返すのを、二人が気づくことはなかった。