親鳥は籠のなか 7

 その気になりさえすれば、それが耳に入るのはすぐだった。他科の人間に一声かければ情報が集まるのはあっという間。医師、看護師、警備員や清掃員までもが小耳に挟む程度にはそれを聞き及んでいたというのに、何故か救命だけは情報が遠く閉ざされていたことがわかり、冴島は唇を噛んだ。

 これは明らかに誰かの意図が絡んでいる。それもおそらく近いところで。それが悔しい。何も知らずに大切な仲間の身をさらしていたなんて、憔悴していく姿を見ているしかできないなんて。口惜しい。

 白石の人となりを否定する様々な噂。それは冴島にとっても身を切るような鋭利さを孕んでいた。――これを耐えていたのか。こんなものを抱えて日々を過ごしていたのか。一人きりで。誰に頼ることもなく。誰かが傷つき思い悩んでいたなら何を置いても守ろうとする彼女が。傷だらけで立っているなんて。

 白石が倒れたのは、それからほどなくしてのことだった。

*

 藍沢がその背中を見つけたとき、耳が荒い呼吸音を拾い上げた。通路の隅に蹲って必死に堪え、なんとか自力で過呼吸から脱しようと、コントロールしようとしているのがわかった。
 駆け寄って肩に触れ、腕を取り、小さく縮まった身体を無理矢理抱え上げる。運び込んだ備品置き場でストレッチャーの上に下ろし、頭を抱え込んで背中をさすった。

「ゆっくりだ。落ち着いて吐いて、そうだ」

 数をカウントし、合わせて浅い呼吸をゆっくりさせる。自身でも知識はあるはずで、特に過去にも過呼吸を起こしているのだから、落ち着いて対処すればじきに治まるはずだ。

 次第に呼吸が落ち着いていくことに安堵し、そっと身を離す。薄がりにもわかる青い顔。ぐったりと力を失った身体を横たえてやると、薄ら開いた瞼の下に滲むものを見つけて指先で拭った。
 ただでさえ華奢な姿がこのところ一層痩せ細ってきたように見えて、遠目からも気にかかって仕方がなかった。そこに、耳に入ってきた彼女を取り巻く噂話。否、それはただの誹謗中傷だった。

「…………ごめ……ね……」

 掠れたつぶやきが落ちて、藍沢の表情が歪む。

「お前はよくやってる」

 胸中に渦巻く感情に苛まれる。謝るな。震える目元を手で覆い隠す。何も見なくていいなんて言えやしないが。お前が自己嫌悪に襲われる必要がどこにある。

 誰よりも彼女を非難していた彼女自身が、もがきながらここまでやってきたというのに、何故今頃。
 親の力で生きてきたわけではないこと、努力に努力を重ねて実力を培っていること、他の何事にも現を抜かす暇もなく、誰よりも懸命に命に向き合い医師として立派に務めを果たしていること。忘れるつもりはなくともここから離れた自分とは違い、逃げることなく戦ってきたのは誰でもない彼女だ。

 ずっと見てきたのだ、誰とも知れないものの評価など、戯れ言などに惑わされる必要などどこにもない、――愚かなのは彼女を愚弄する側なのだから。

「そんなに背負い込むな」

 まっすぐ受け止めようとする彼女の強さが、今はもどかしく忌まわしい。
 その荷を分けてくれと、そんなことを言えるような立場でもなく、仮にそう告げたところで、抱えて背負って一人で走ろうとするのだろうが。こんなにも折れそうな背中で。

*

 ――ああ、彼の耳にもそれらは入ってしまったのだと、理解して、白石はぎゅっと目を瞑る。

 彼にも思い出させてしまう。赤に染まる視界を。それを思うだけで苦しくて息が詰まった。泣けないのに、泣いてはならないのに、目頭が熱くて。
 その両目を覆う大きな手のひらがあまりにやさしくて。あたたかなこの手に、このまま縋り付いてしまいたいなんて、そんなわがまま、言えるはずもない。思っては、いけないというのに。

「お前は独りじゃない。知ってるだろ」

 どうしてそんな言葉を投げるの。甘やかさないでほしいのに。これは自分の背負うべき業で、誰かを頼るような巻き込むような真似は逃げることと同義だと、

「……これ以上、藍沢先生に甘えられないよ……」

 後ろ指をさされたところで一人で立つほかないと、思えばこそ走り続けていられたのに。

「……ばかだな」

 長く心地良い指が乱れた髪を払い梳く。そろりと開いた瞼の向こうでふと漏れる吐息。その眼差しがやわらかで、目尻から熱いものがこぼれていった。