親鳥は籠のなか 8


「ちょっといいですか」

 掛けられた言葉は、そもそも問いかけではなく、振り返った先で、揺らぐことのない冴えた眼が射抜くように向けられていた。口元に薄らとたたえられた微笑が、眼差しの鋭さを一層強調して見せている。
 その斜め後ろには、付き従うかのような姿があり、唇が歪むのを自覚する。自分の言動に真っ先に気づいた、誰よりも近くに立っていたその存在。度を超えればこうなることくらいわかっていた。

「なんでしょう」

 連れられた相談室に押し込められ、逃がさないとばかりにドアの前にはフライトナースと同期同僚。ドア向こうにも一人立っているのは見えている。

「……用件はよくよくご存知かと思いますが」
「さあ、なんのことですか?」

 しらばっくれても無駄なのは明らかで、目の前にしたフライトナースの表情が凄味を増した。

「あなたのだーい好きな先輩のお話なんですけど、ちょっと確認させていただいても?」

 一歩、詰められて。ならばと長机の向こうへ回り込みパイプ椅子を引いて腰を下ろす。どうせすぐには解放されやしないのだろう。
 手段を選ばないなら無理に部屋を脱することは可能だろうが、だからといってここまで来てはそれすら面倒でしかない。

「大好きな先輩? 誰のことですかね?」
「あなたが健気にも心配してまとわりついていたひとのことですよ」
「まとわりつくなんてひどいなあ」

 どうせ物証などありはしない。証言だとて出来うる限り出てこないよう気を配っていた。しかしそれも同期に勘づかれた時点でどうでもよくなっていた。

*

 白石が過呼吸を起こして倒れたと、藍沢から連絡を受けたとき、冴島は湧き上がる衝動を堪えるためテーブルについていた手を強く握り込んだ。
 しばらく寝かせるからと、本来なら仮眠室に運び込むべきところを人目に触れさせたくないとの意見が一致し、毛布や点滴を備品置き場に持ち込んで。そこで目の当たりにした顔色に、先ほどの衝動が再び迫り上がった。

 誰が根源であるか、それは自ら飛び込んできた情報源から報告を受けていた。何を誰を信じるか、どこまで信じられるか、状況を考えるに悩みどころではあったが、自身の感覚と照らし合わせれば自ずと答えは出ていた。

「ナースや後輩に守られるドクターってどうなんですか?」

 長机の向こう側、パイプ椅子の上でふてぶてしくも足を組んだフェローは、おそらく本来の性質なのだろうこれまでとは異なる表情をさらして鼻を鳴らす。

「守ってるわけじゃないわ。あのひとは強いひとよ。私に罵倒されたってめげないんだから、あなたの陳腐な嫌がらせに負けるはずがない」

 最初こそ気弱で処置に手間取りその頼りなさに、何故こんなひとがと、何故こんなひとにと、歩み寄ろうとしてきた白石に声を荒らげたのは誰あろう冴島ではあったが、懸命に駆け続け飛び続けている姿をそばで見てきた。弱いと見えるのも迷うのも、患者や周囲を見過ぎるほどに見て気遣っているからこそなのだと知っている。

「そうですか? なかなか効果的だと思ったんですけどね。この世界は醜聞を嫌うし、高名な教授の娘がってなれば話題性も抜群だし」

 明確な意思をもって流された噂は、確かに白石を刺した。心を抉って、まるであの翔北から逃げ出そうとした時期のように、糾弾する周囲の目に声に揺さぶられ続けていた時期のように、足元が不確かになっている。

 人の口に戸は立てられぬと言うが、それが明らかな妄言であっても嬉々として流す人間というのはどこにでもいる。病院なんて世界は患者を救ってこそだというのに、出世だなんだと足を引っ張り合うことも常。
 ひとたび噂が流れれば好奇の的になること、身の置き所がなくなること、この世界を身近に感じる環境に身を置いて育ったがゆえに、冴島にもよくわかる。だが、だからこそ、一層許せないのだ。

 親の名などなくとも自分の足で立ち、捨てなくてもいいものまで時に切り捨て、身も心も削りながら傷だらけで奮闘している彼女を。どんな思いでここまでやって来たか知ろうともせず傷つける――。

「……あなたは、」

 冴島の喉から出た声は低く、落ち着こうと吸った息は奥に絡まって落ちていく。悪びれもせずに平然とした顔をしたフェローは、この男は。

「そんなに躍起にならないでくださいよ。たかだか噂を操作しただけですよ? それも内容に関して言えば大半は事実だったと思いますけど」

 奥歯が、音を立てたのを聞く。冴島が衝動的にその手を長机に叩きつけようとした瞬間、鈍く音が、次いでパイプ椅子が崩れる音が響いた。

*

 冴島が我に返ったのと、長机に乗り上げていた小柄な身体が床に着地をしたのは、ほぼ同時。そして勢いよくドアが開いたのも間もなくというタイミングだった。

「おいおい派手な音させてどう……した、ってこれはまた激しいねえ」

 顔を出した橘は、室内の光景に言葉を途切れさせ、苦い笑みを浮かべる。暴れられでもしたらと待機していた橘だったが、力技を放ったのは想定とは逆の側。

「すいません、衝動を抑えられませんでした」

 こぶしをほどくことなく握り締めた葛西は、しかめた顔をそのままに真坂を見つめていた。殴り飛ばされた本人はパイプ椅子から転がり落ちた状態から起き上がることも忘れ、愕然とした表情で葛西を見返している。まさか医者同士で、それも小柄な女医からこんな実力行使を受けるとは思っていなかったのだろう。

「これじゃあ他のやつら外した意味がなくなったなあ」
「同期の不始末は同期が片を付けるとしたもんでしょう。気づいてからも止められなかった葛西も同罪なので、ぶん殴ったことも含めて責任は取ります」

 はっきりとした声で橘に告げる葛西に、冴島はほうと息を吐く。
 唇を噛み締めて冴島のもとへやって来て、途方に暮れたように抱えていたすべてを吐露した姿はそこにはなかった。真坂の吐き出す言葉の数々に、いかにも胸糞悪いという感情を表に出した葛西は、話を聞く最中にか堪えていたものを消化したらしい。

 しかし橘の言うように、これでは緋山たちをあえて連れずに席を設けた意味がなくなってしまった。熱くなりすぎないよう、手を出さないよう、白石に近しい同期たちとは隔離する形を取ったというのに。
 今頃、藍沢は白石のそばについているだろうし、緋山は剣呑な顔つきで仕事をこなし、藤川は落ち着きなく歩き回っているはずだ。

「……幾分スッキリしたので、葛西先生に問われる責任の一部は私も負いますね」

 彼らの思いも背負ってきたのだ、本当ならばこの手で追い打ちをかけてもいいところだが、そうしたところで気が楽になるのは自分たちであり、白石はそんなことを望まないと思えた。
 にこりと、半分本気の笑みを乗せれば、そんな冴島に橘は肩をすくめてみせるのだった。