親鳥は籠のなか 9


「えっ、辞めた……!?」

 無理矢理取らされた連休明け、出勤早々耳に入れたそれに驚く白石は、慌てて医局を見回してその気配を探しているようだった。すでにデスクは片付けられ、ホワイトボードに貼り付けてあった写真も処分、書類などの類も橘の手により一新され名残りひとつないはずだ。

「一身上の都合だってよ」
「実家の病院に戻るって言ってたけどねー」

 不在の間に何があったのかと動揺を隠せない白石に、同期たちはあっさり嘘とも事実ともつかないそんな言葉を投げて。目の前で繰り広げられる冗談のような展開に、葛西は困ったように笑った。

 お節介で世話焼きな上級医が癇に障ったと、あの日語られた真坂の台詞の一部くらいは理解できないでもなかった。
 親の背中に憧れて医師になり、笑顔を絶やさず、周囲に慕われ、優秀で美人な女医だとは、なんて恵まれたひとなのだろうと。にこにことした姿には憧れを覚えながら、一方で苦労知らずのお嬢様かと腹で思っていたことは否めない。

 それでもひとたび患者と向き合えば誰よりも強い眼差しを持ち、冷静な判断力と豊富な知識、確かな技術で命をすくい上げる。そこに努力のあとがあることくらい、同じ医師ならわかって然るべきだったというのに、自分の思い込みに凝り固まって現実を見ようとしなかった真坂は哀れだ。

「葛西先生もさみしくなるね」
「うーん、まあ、……そですね」

 結局、葛西に大したお咎めはないまま、真坂は実家へと帰されることになった。強制送還だ。二度と翔北にも本院にも足を踏み入れることのないようにとお達しが出ていると聞いた。

 緋山と藤川は、自分たちが手出しできないままに迎えた結末に不満をこぼしていたが、これ以上の大事にならないに越したことはない。患者に関わることではなかったが、信用第一の病院だ、真坂が口にしていたように醜聞は避けるべき物事であるし、そんな話が万一漏れるようなことになればと考えるだに恐ろしい。

 被害者である白石本人に事の真相を知らせたくないとは同期たちの総意のようで、それには甘いひとたちだなとも思えたし、白石が知ったなら真坂にいずれ下される処罰の軽減を求める彼女も容易に想像がついたから、さらに何とも言えない気分に陥った。

「――白石先生は、」

 自分の身に起きたことに気づいていないらしい彼女は、鈍いわけではなくきっとやさしすぎるのだろう。そう考えるのは都合のいい解釈か。
 どうしたのと首を傾げる白石に、葛西は笑顔で口をつぐんだ。

*

 夕暮れ時のヘリポートに見えた頼りなげな背中に、藍沢は呼び寄せられるようにして足を進めた。ドクターヘリと空とをぼんやり眺めている姿にゆっくり歩み寄れば、

「フェローが一人、辞めちゃった」

 目を合わせることもなくこぼされる声。その顔色は、休みの間にしっかり休養できたようで、先日目にしたときより随分とよくなった。原因が取り除かれたこともあり、藍沢はそっと胸を撫で下ろす。

「いいフライトドクターになってくれると思ってたんだけどなあ」

 馬鹿なことをしでかさなければ、確かにそうなっていたのかもしれない。
 医師の親を持ち、真面目で優秀、やる気もある。そこだけを見れば、彼女と似ていたフェロー。気にかけるのもわからなくはない。
 しかし彼は道を誤った。少なくともここで飛ぶ日は二度と来ないし、残念がる必要もないと言ってやりたいところではあるが。

「やっぱり私が不甲斐ないから……?」

 肩を落とす白石は事実を知らないとわかっているものの、そのお人好しさ加減に呆れていっそ笑ってしまう。

「馬鹿なことを言う暇があるなら休めるときに休んでこれからも精一杯励んだらどうだ、スタッフリーダー」

 手にしていた缶コーヒーを手渡せば、ゆるりと返る微笑みを目にして隣りの柵へと並んで腰掛ける。赤、青、紺と、何色ともつかない空に照らされたヘリポートはやたらと美しい。

「離れた人間を惜しむより、残ったやつをしっかり鍛えてやれ」
「……うん、わかってる」
「誰よりも飛ぶんだろう? 黒田先生に言われたからじゃなく、お前の意思で」

 いつか自分の身に起こったこの*末を知る日が来れば、そのとき彼女は知らされなかった自身に憤り、そうして怒るのだろう。
 それでも今は、今だけでも、知らないまま心を休めて欲しいと願う。それは単に自分たちのわがままであり自己満足なのだとわかっているけれど。