そろそろかもしれないとは、思っていた。徐々に弱って痩せ衰えていく姿。直接目にした回数こそ少ないものの、電話口の母親から聞かされていた。
――ああ、ついにきてしまった。
覚悟はしていた。ステージIVと診断されながらもよく生きてくれていた。むしろこれで闘病の苦しみから解放されたと言えるのかもしれない。
それでも、胸は重い。
ずっと見てきた背中。追いかけてきた背中。目の前から失われたそれに、聞いた瞬間涙があふれた。
人手が足りないというのに、急遽休みをもらって帰った実家では、清められ白装束をまとった父親が眠っていた。
もう最期になる。告げられてなんとか向かっていたのに、母親との電話を耳元に持っていってもらい「帰るから待っていて」と伝えていたのに、間に合わなかった。医者同士の約束なんてと、こんな最後の最後にも父親はあの世で笑って言うのだろうか。
葬儀については母親、父親の友人知人によって進められていて、白石にできることは喪主として立ち振る舞う母親に寄り添うくらいだった。
すべてを終えて、ぽかりと空いた胸の空洞に気づく。
遺影は医師として活躍していた頃のもので、それは記憶に残る白石にとってのヒーローそのもの。なのにその笑顔に、胸が締めつけられた。
そうだ。思い至り、のろのろとした動作でスマホを手に取る。一応、伝えておこう。話を聞いてくれていたから。気にかけてくれていたから。今頃は仕事中だろうけど、どうせ他のみんなは知っているし。
実家を出て一人暮らしの部屋に戻る。ゆっくりしていけと母親には言われたものの、これまでろくに休みをとってこなかったのに父親を喪った今になってゆっくりするのも落ち着かなかった。そのくせ、部屋で一人になると息苦しくて何も考えずに夜のなかを飛び出した。
どこかへ行こうにも、勉強と仕事ばかりで生きてきた白石に選択肢などなくて。ふらふらと開けたのは行きつけのスナックのドア。そこに当たり前にいる恒夫の姿に、ほんの少し安堵した。
「あらブスじゃない。いつものでいーい?」
「ん、お願い」
いつもはカウンターのところを、今日は奥のソファへと足を進める。そこには予想外の姿があって、息が詰まった。
「……お疲れ」
「………………うん」
連絡は入れたけど、会いたかったわけではなかった。それでもここに来てしまったのは、どこかで期待もあったのだろうか。
隣に腰を下ろせば、藍沢は静かに揺らすグラスを見つめる。テーブルにはピスタチオ。いつもと変わらない光景がそこにはあって、喉の奥をせりあがるものを感じて唇を噛んだ。
「連絡、ありがとう。何もしてやれなかったけど」
ただ首を振って返す。空気を察してか、恒夫がらしくなく黙って差し出したグラスを両手で握り、口をつける。
「できることなら参列したかった」
「……うん。ごめん」
「謝ることじゃない。参列できてたとしてもお前の話を聞く時間はなかっただろうし」
かけられる言葉は淡々としているのに、そこに気遣いがあふれていることがわかって、呼吸が滞る。まだ舐めるようにしか飲んでいないのに、アルコールのせいなのか。頭も胸もぐるぐるとまわる。
思えば、唐突に告げられた父親の病気について酔いに任せたとはいえ話した相手は一人だけで。いつか遠くないうちにこうなることを知っていたのも、白石と共有していたのは彼だけだった。
震えそうな唇を噛みしめる。浅い呼吸を感じた藍沢が眉根を寄せるのがわかった。
「お父さんのこと、気にかけてくれてありがとう。なんか、心配かけて、ごめんね」
「俺が勝手にしたことだ。気にするな」
「……うん、ごめん」
息が嗚咽になりそうで、言葉にならない。
父親のことが身体中を渦巻くように巡る。ああしていれば、こうしていれば。浮かぶのは後悔ばかりだ。救命医なんてやめろと言われて反発した、あのときだって父親なりの愛情だったのに。触れ合える時間が少なかったからか、お互いの愛情がどこか空回りしていたようにも思える。
愛されていた。慈しまれて育った。わかっている、知っている。愛していた。尊敬していた。憧れて、追いかけた。
「お父さんに愛してたって、ちゃんと伝わってたかなぁ……」
もっと愛していると伝えられたならよかったのに。父親の病状を知ってからはなるべく時間をとれるよう、顔を合わせられるよう、せめて声を聞けるよう、でも医者なんて難儀なもので、どうしたって思うほどには叶わない。
「俺は白石教授のことは噂なんかで聞く程度しか知らない。でも飛行機事故のとき、お前と治療に奔走する姿はこれが親子ってものなのかと思った」
何もしてあげられなかったのに泣く権利なんてあるのかと、そう考えていたのに。
それが慰めのつもりだったのかはわからない。でもきっとそうなのだろう。親子の絆を持たない藍沢なりの言葉にこらえていたものがこぼれだした。
きっと、ほんとはただ、聞いてほしかっただけだったのだ。気にかけてくれていたからなんて言い訳で、お互いの父親についてわずかでも共有した相手に寄り添ってほしかったのだ。
手の届く距離、いつもより近くにある体温に、泣くことを許された気がした――。
同僚に気遣われながらも早々に復帰した病院で、開いたエレベーターには数日ぶりに合わせる顔。
いつもの冷めた表情を崩して目を見開く姿に、中へと乗り込んだ白石は微笑んだ。
「お疲れ様、藍沢先生」
「お疲れ。お前、」
言葉にならないのか、珍しく言いよどむ様がおかしくて、白石は自分の髪に触れる。
「切っちゃった」
ずっと伸ばしてきた髪だった。切り揃えてもずっと背の中ほどまではあった黒髪。今では肩にも届かない。
「新しい気持ちで前に進もうと思って」
断髪はその決意のあらわれ。
藍沢が目を細める。まるでまぶしいなにかを見るように。その口元はゆるくほころんで見えて、白石は笑って顔を上げた。