胸に巣食う焦り


「白石先生、お願いします!」

 突然救命のスタッフステーションに現れた新海先生が頭を下げた。いきなり何事かと呆気にとられる私の前で、周囲を気にしたように見回してからカウンターに手をつき身をかがめて声を低める。

「脳外のつながりでちょっとお見合いを勧められてまして。年齢も年齢なんでまあ覚悟はしてたんですけど、まだ仕事に集中したいのと相手は自分で選びたいので、お断りしたいと考えていまして」

 はあ、とうなずく。上司や親族からの口利きを受けるとはよくある話だ。仕事に明け暮れて出会いの期待できない職場では、恋愛より紹介を通してという割合は高い。
 私も母親からそんな話を持ち出されたことはあるし、直属の上司からはないもののつながりのある先生などから打診されたこともある。今のところはそんな暇なんてないからとすべてお断りさせてもらってるけど。

「一度は断ることができたんですけど、何を思ってなのか最近また声をかけられて。申し訳ないんだけど、恋人のふりに付き合ってくれませんか」

 いつもの柔和な笑顔が困り顔に。あくまでも低姿勢に頭を下げる新海先生に、いやむしろ困るのこっちなんですけど!?

「なんで私なんですか? 私は他科で新海先生のこともよくは知りませんし、あ、ほら脳外のナースとかでも」
「そうなんですけどね。相手が医者家系の一人娘でナースだと下に見られるっていうか。年齢も経歴も釣り合ってるって見せないと断りにくくて」

 それにしたって私である必要はやっぱり感じられないんだけど。
 考え込む私に、新海先生は「白石先生なら条件的にもピッタリだし、救命医で忙しいとでも言えばちょっと姿を見せるだけで切り抜けられるんじゃないかと思うんです」「頼むよ」と言葉を重ねる。

 真剣な眼差しに逃げ場を失う。顔を出すだけで済むのなら、恩を売って脳外とのパイプを太くするのも悪くはないかもしれない。なにより、本気で困っているというのならできることならしてあげたいと思ってしまう。まったく知らない仲でもないわけだし。

「……わかりました」

 仕方ない。困ったときはお互い様だし。
 承諾の返事に、新海先生はあからさまに安堵の表情になる。よっぽど困ってたんだなぁ。わからなくはないけど。
 プライベートでの連絡先を交換し、日程などを軽く聞いていると。


「なんでお前がここにいる。新海」


 ラウンドから戻った藍沢先生が歩み寄ってくる。
 新海先生が私に向かって前のめりだった上体を起こして振り向いた。

「ああ藍沢。今度の木曜日、白石先生借りるな」

 にこやかな新海先生と真顔の藍沢先生が相対する。藍沢先生の表情がぴくりと動いた。

「は?」

 怪訝な目付きで新海先生を、そして私を見る。

「なんの話だ」
「藍沢には関係のない話だ」

 ああそんな言い方。案の定苛立った様子の藍沢先生の視線は、新海先生を睨みつけるように鋭さを増す。
 新海先生だって藍沢先生と長く付き合っているようなのに、扱いを心得ていないものなのかな。仲裁するつもりで私は椅子から立ち上がる。

「あのね、藍沢先生。新海先生がお見合いさせられそうで困ってるって話をしてたの」

 先を促すその目が厳しい。何を馬鹿なことをと言われそうだけど、黙っているのも機嫌を損ねそうだし。

「それで、それをお断りするために恋人のふりをしてほしいって」
「なんでお前がそんなことに付き合う必要がある」

 だいたいそんな反応だとは思っていたけど。

「困ってるやつがいたらなんでもやるのかお前は。わかってるつもりだったが随分なお人好しだな」
「なに怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってる」

 呆れた顔をされるかとは思ったけど、予想外に苛立ちの募ったような声でそんな言葉。こちらも神経を逆撫でされる。
 昔よりずっと他人を思いやる様子を見せるようになったのに、いったいなにが気に入らないのかわからない。

「困ってるひとに手を差し伸べるのはひととして当たり前のことじゃない。藍沢先生、違う?」

 まっすぐ挑むように見つめる。睨み合う時間はどれくらい続いただろう、藍沢先生は苦々しそうに吐息を落として背を向けた。
 新海先生は肩をすくめていて、そもそもの発端は先生なのにと思わずにはいられなかったけど、その苦笑を帯びたやわらかな表情を見ると文句も言えなくなってしまった。





*





 新海先生が休みで私が日勤のみだった木曜日。急患も夕方までには落ち着いてくれて、着慣れないワンピースに着替えても約束の時間に間に合うことができた。
 普段の私からは縁遠いホテルに入ったイタリアンのお店に、これから任されている役目を改めて感じて緊張に唾を飲み込む。ロビーで落ち合った新海先生は見慣れないスーツ姿だったけどいつも通りの表情で、ほんの少しだけ落ち着く。そうしてエスコートされた先で、スーツ姿の初老の男性ときれいに装った女性と顔を合わせることになった。

 お見合いといっても表面上は食事会といったことらしく、事前に聞いた話では、娘を紹介したいとも直接言われたわけではないのだそう。ただ、娘をまじえて食事でも、と。意味することは察しろということかな。
 当然相手側は食事を了承したのだからと、新海先生もそのつもりだと考えていたようだけど、友人ですとは言いながらも紹介された私の姿に一瞬不快そうな表情が浮かんだ。


 ――正直、そこからの記憶はあまりない。


 上辺だけの会話をして、愛想笑いをただただ続けて、新海先生の話に相槌をうって少しばかり親しさをアピールしてみせる。でもそれも三十分との約束……が、離席を切り出すタイミングが掴めずに時間ばかり経って。

「すみません、彼女忙しいひとなもので、そろそろ失礼させていただきます」

 新海先生がそう発言したのをきっかけに、食事会はお開きとなった。失礼かもしれないとは思いながら父娘を置いて出てきたロビーで、新海先生はごめんねと手を合わせてくる。

「いやほんと助かりました。今度お詫びさせてください」

 思った以上の疲弊感に曖昧な笑みしか出てこない。苦笑した新海先生が励ますように労うように肩を叩いてくれた、瞬間。
 あらぬ方向から腕を引かれ、足もとがよろめいた。

「おう、お疲れ」

 新海先生の目線の先、私の左手首を掴むのは。

「藍沢先生? どうしてここに?」

 憮然とした表情の藍沢先生がいて、おどけたように両手を上げてみせる新海先生を睨みつけながらこの手を引く。

「返してもらう」

 え、と思う間もなく問答無用でホテルから引っ張り出された。







「返してもらう」

 思わず口走った言葉を、白石はどう受け止めただろうか。なにも言わせる前にその腕を引いてホテルから連れ出す。楽しげに笑って、手まで振って見送ってきた新海が腹立たしい。

「……返してもらうって」

 小さな声が聞こえるが、答える言葉は用意していない。

「私藍沢先生の持ち物じゃないよ」
「……わかってる」

 俺のものではない。わかっていて身体が動いてしまうのだから自分でもこの感情を持て余している。らしくないと思う。何事も冷静に思考をめぐらせ実行してきたはずだったのに。
 なにを言うこともできず、言い訳や誤魔化しをすることもできないまま、どこに向かうでもなく歩いた。ただその場から離れたい気持ちだった。

「……痛いよ」
「悪い」

 咄嗟に手を離す。自分の腕を引き寄せた白石は軽く息を弾ませていて、彼女を振り返りもせず歩を進めていたことにようやく思い至った。
 沈黙が落ちる。いつもならお互い無言でもたいして気にもならないのに、今はなぜかとても気まずい。
 それでも言わずにはいられなかった。

「他人のためでも、もうこんな頼みを引き受けるのはやめろ」
「指図される意味がわかんない」
「……嫌だからだ」
「なんで?」

 他の男と並ぶ姿を見たくない。触れてほしくない。ただの個人的な感情。意見などする立場ではないのに、……お前に関することには余裕がなくなる。俺はこんなにも小さな人間だったのかと思い知る。
 仕事中ならば言葉にしなくても意図することが伝わるのに、プライベートになると途端にわかりあえなくなる。俺が身勝手な執着を抱いているからか。

 白石がため息を吐く。理由も説明できずに私的な意思を押し付けるのだ、怒ったか。しかしその顔は予想外に穏やかで、問いただすことをか諦めたように笑っていた。

「……帰ろっか、藍沢先生」

 胸中で深く深く息を落とす。失うのが怖くて衝動的に動いて、それで嫌われて失ってはもうどうしようもない。そうならなくて安堵していると自覚する。

「藍沢先生ご飯食べた?」
「食べてるわけないだろ」

 気が気でなくて仕事を終えて飛び出してきたのだから。
 袖をつまんで引く白石に促されて歩き出す。今度はゆっくりと。

「じゃあどこかで食べてこ。めぐり愛でも行く?」
「そうだな。恒夫に飯と酒用意させよう」

 並んで歩けば、胸に巣食っていた焦りが次第に溶けていく。こんな気待ちにさせるのは、きっと、彼女だけ。