救命のスタッフステーションから脳外科医局への帰り道、藍沢は窓辺に佇む姿を見つけた。その横顔は何を思うのか、感情の読めない表情を浮かべているのに、藍沢の目にはまるで透けてしまいそうなほど儚く映った。
転科の都合で情報を擦り合わせるため訪れたそこにいつも見る彼女の姿はなく、なんとなく視線で見回しただけだというのに、冴島には「休憩に入ってます」と一方的に主語もなく告げられ、なんのことだと言いたくなった言葉を静かに呑んだのだった。
いつの間にか止まっていた足をそのまま、藍沢の視線の先で細い指先が小さく動く。その様子を捉え、思い至る。手にしているのはおそらくメモ帳だ。一度雨に濡れ文字の滲んだ、彼女が翔北に来てからずっとポケットに収まっていた、あの。
耳の奥でよみがえるのは、雨音。激しい、打ち付ける音。悲鳴に酷似した叫び。消せない記憶。失くしてはならない過去。
どれだけ日々に流されようが、雨に打たれようが、いくつ命を掬い上げようが、――それはなかったことにはならない。
常に冷静であろうとする藍沢とて夢に見ることがある。俺の腕はどこだと、澱んだ目をした恩師の言葉が存在が、突き刺さる。
余計なものを背負わせられたと憤ってもいいところかもしれなかったが、もちろん医師として安全確認を怠り起きたことは咎められるべき事案ではあるものの、藍沢には彼女を責めるつもりは毛頭なかった。
どうして自分がこんな処置をしなければならなかったのか、恩師の腕を、人生を、奪わなければならなかったのか。
他の同期もまた傷を負っていないとはいえない。きっかけを作ったのは彼女、処置を下したのは自分、それを見守るものもまた無傷ではいられなかったはずだ。救命に残ると決めた仲間が整形外科を学んでいるというのはあの出来事に思うところがあったからではないかというのはただの推測ではあるが、何も出来ない自身を悔いたのはきっと誰もが同じこと。
それでも誰も彼女を責められはしなかった。すでに起きてしまった出来事をどうこうできるはずもなく、不幸自慢がしたいわけではない。
――なによりあの姿を見て、彼女をこれ以上傷つけようなどと思えるはずもない。誰よりも自らが身も心も引き裂かれそうなほど責め立てているのだから。
藍沢の目に温室育ちに見えていた彼女は、きっと順風満帆に生きていて、周囲の反応を見ることに長けているからこそ間違った選択をすることもなく、おそらく取り返しのつかない経験などしてこなかったのではないだろうか。
実際のところはわからない。それでもこれまで見てきた彼女はやはり臆病で繊細で、そんな彼女がこの重荷を抱えて生きていることが、不意に藍沢の胸に不安をもたらした。
折れてしまいそうな背中だ。華奢なのはもとから知っている。それにしても。その顔色も冴えない。
あの頃は互いにそれを抱え込み思い悩んで、その姿、様子が見えていなかった。強がっているから、前に進んでいると感じていただけで。気づいたのは離れてから。脳外に移ったばかりで余裕などなかったはずなのに、何故かやたらと目に入って気にかかった。
スマホが鳴り半ば無意識に操作をした目に飛び込んできたのは、急患が足を切断したのだという情報。お調子者でお節介な送り主は、事あるごとに様々な連絡をしてくる。
ああ、やはり。
だから、そんな顔を。
雨のなか触れた肩。そこに触れることは、今でも許されることだろうか。ともに戦場を駆けることさえなくなった今でも。その背を支えたいと思うのは、許されることだろうか。
伸ばしたくなる手を握りしめ、藍沢は歩き出す。
慰めなど欲していないだろう。縋るのを良しとはしないだろう。真面目で頑なな彼女の背中は震えているのかもしれなくても。