気にかけてくれるひと


「ため息多いな」

 不意に藍沢から投げられた声に、白石はハッとして書類に走らせていた視線を上げて手を止めた。

「あ、ごめん」
「……事故だったんだろ。お前からそう聞いたが」

 確認せずとも白石の意識が灰谷の件に向いていることは明らか。それぞれのデスクに座った二人は各々作業を続けていたものの、なんとも言えない空気に包まれている。


 ――灰谷が駅のホームから転落した。


 目の前で患者を亡くしてからの灰谷は、誰の目にも気落ちしていたし、白石の名前を使い自分に多量の睡眠薬を処方していた。そして、事故。
 急患として運び込まれてきたときには、スタッフは一様に驚愕した。しかし、腑に落ちて感じてしまったのも事実。ああ、彼ならそうかもしれない、と。

 意識を取り戻してからもそれを聞くことはためらわれたが、それでもそれは避けられない話で。直接問いただしたのはスタッフリーダーの白石だ。
 あれは睡眠薬でふらついての事故だったのだと。灰谷は申し訳なさそうに、情けない顔をして口にした。
 もちろん白石は安堵した。命を救うために駆けずり回る救命医が自分の命を放り出すなんて、信じたくはなかったから。
 それでも、と思う。思ってしまう。

「私の監督不行届だわ……」
「思い詰めんな」

 ここに来た頃とは違って灰谷も変わり、患者を救いたいという意欲が出てきたところだったというのに。先日のドクターヘリ着陸失敗時の調査委員会でも自分の責任だと白石は頭を下げたが、スタッフリーダーとして、指導医として、未熟な自分が不甲斐ない。
 肩を落とせば藍沢が続ける。

「お前までそんな風でどうする。あいつは戻ってくると言っているんだろう」
「……うん」

 死ぬつもりはなくて、単なる事故で、だから回復すれば早々に復帰したいと言った灰谷に、白石は歓迎すると答えた。
 本人がどう主張しようと、仲間内で自殺未遂ではないかとの憶測はすでに飛び交い蔓延してしまっている。そんななかで働くというのは想像するだに厳しい状況だ。だから、

「笑顔で迎えてあげなきゃね」
「無理はしなくていい」

 支えなきゃと、自分に言い聞かせるように口にすれば、藍沢がため息混じりに言い切った。
 本心でもないとお前すぐ顔固まるからな、と。白石は、そうなのだろうかと首を捻る。確かに嘘は苦手な自覚はある。眉間に皺を寄せ両手を頬に添えると、藍沢が小さく笑った。

「いつも通りでいいんじゃないか? 気にかけてくれるやつがいるってだけでうれしいもんだろう。そんなお前を灰谷は邪険にするようなやつじゃない」

 その口調がやわらかで、彼もまた灰谷を気にかけているのだとわかる。しかしそんな藍沢の顔を、白石はじっと見つめた。

「お疲れー」

 藤川が医局のドアを開け放しながら現れ、藍沢はそちらに一瞥だけをくれて作業に戻る。……表情が一瞬翳って見えたのは気のせいだろうか。

「なになに、何の話ー? 俺もまぜてよ」
「こういうのは鬱陶しいだろうから適度にな」
「えっなにそれ、どゆこと!?」

 不満顔の藤川は藍沢の肩に手をかけて揺らすものの、あっさり払い落とされいなされる。それはいつもと変わらない光景。


 でも、ねえ、藍沢先生?

 さっきの顔、無意識かもしれないけど見逃してないよ。気にかけてくれた相手を自分は邪険にした、なんて、自分の発言に傷ついていない?


 あの日突き放したのは藍沢で、それでも他人に無頓着そうな彼が実際には冷淡な人間ではないと知っている。だからこそ気になる。だからこそ簡単には踏み込めない。

「じゃあ、普段通りに仕事しよう!」

 藍沢の表情に過ぎったものを追求もできず、白石はあえて明るく口を開いた。それが立ち上がっての宣言のようになってしまったものだから、藤川が面食らったように瞬いた。

「白石ぃ、張り切りすぎんなよ? お前はまず足治してからな!」
「……それだけは同感だ」

 二人揃って断言され、白石は曖昧な微笑みを浮かべて椅子へと座り直した。