鬼の霍乱に眠る

 早朝に目が覚めると激しい頭痛に襲われた。昨日帰宅した段階で喉がいがらっぽいと感じたため用心しようと思った矢先のことだった。

 部長とスタッフリーダーに連絡を入れ、力尽きて枕に伏す。仕事もできないくせに生意気なフェローに、鬼の霍乱とでも言われそうだ。それともそれを口に出すのは、気が強くて口の悪い緋山か、調子がよくて口の軽い藤川か。何にせよ迷惑をかけるのは事実、好きに言ってくれと眠りに落ちていった。










 インターホンの音で意識が引き上げられる。何度か目が覚めたようにも感じるが、うつらうつらとしていて記憶がはっきりしない。ぼんやりしていると再び音が鳴り響き、控えめなノックも聞こえた気がした。
 身体が重だるく動きたくはなかったものの、仕方なく玄関へと向かう。鈍い感覚。のそりとしか動かない足は、自分のものではないようだ。途中ちらりと視線を向けたドアモニターには、そこに見るはずのない顔が映っていた。

「わ、すごい顔」

 モニターの映像は幻か勘違いかと思ったのに、玄関を開けた先にいたのはやはりそのひとで。ああ、そういえば部屋が暗いような気はしたのだ。

「……そう思うなら起こすな」
「だって一人暮らしじゃ開けてくれるの藍沢先生しかいないじゃない」

 言えば、困った感情がそのまま表れ眉が下がる。
 入れとも言っていないのに上がり込む白石は両手に買い物袋を提げていて、適当に電気を点けると勝手にキッチンに荷物を置く。そうして玄関に戻って、突っ立ったままぼんやり眺めていた藍沢の手を引いた。

「ご飯食べてなさそうかなと思って、お腹にやさしそうなもの買ってきちゃった。って言っても食べないほうがいい感じかもしれないけど、ね、どんな状態?」

 ベッドに連れ戻して座らせ、白石は額に手をあてる。しっかり熱あるなぁとつぶやいて、仕事中患者に向けるような表情をした。
 まさか自宅で問診を受けることになるとは。藍沢が普段以上の寡黙さでもって答えていくと、ひとつひとつうなずいて、横になるよう指示を出す。
 同僚が体調を崩したからといって押しかけて世話を焼こうなどと、なんてお節介なやつなのか。

「……今日は、」
「いつも通りだったよ。藍沢先生は気にしないで、まずは元気になってくれないと」

 すべてを言葉にせずとも返る答え。藍沢が気になったのはまさしくそのことで、大事故などがなかったのならと息を吐く。
 いつの間にか用意された濡れタオルを額に置かれ、その熱が引かれる感覚に、促されるように目を閉じた。





 明瞭でない意識のなか、まな板を叩くリズミカルな音を聞いたような気がするし、お粥を食べさせられ薬を飲まされたような気もする。記憶は曖昧で不鮮明。

 夜半に浮上した意識。ふ、と瞼が押し開く。天井を見上げたまま瞬くと、随分と思考力が戻ってきていると感じた。頭へと手をやろうとして、持ち上げた腕がなにかに触れる。枕から頭をずらして視線をやれば、ベッドに顔を伏せて眠る白石がいて。自然、ため息がこぼれた。

「……馬鹿か」

 相手は風邪で寝込んでいるとはいえ、男の家に上がり込んで、ましてや寝てしまうなんて。無防備にもほどがある。
 今すぐ叩き起して説教してやろうか。しかし彼女の行為をうれしいと思っている自分にも気づいてしまい、一人いたたまれない気分にも陥る。
 とりあえず気だるさは改善されていたので熱は下がっていそうだった。心なしか呼吸も楽になっている。

「……お人好しもほどほどにしろよ」

 シーツに流れ落ちた黒髪をすくい上げる。はらはらと指先から落ちる感触に動悸に似たなにかが通り抜けていく。
 人一倍荷物を抱えて走ろうとする彼女だから、その荷を引き受けられればと思っていたのに。自分が迷惑をかけていては世話はない。今度は彼女が体調を崩すはめにならなければいいのだが。





 カーテンから差し込む日差しに何度目かの目が覚める。
 そこには見慣れた部屋が広がるばかりで、素っ気ないと感じるのはまだ体調が回復しきれていないのか。

 ゆっくりと起き上がって深呼吸。コンディションはそう悪くない。いろんな夢を見ていたような心地だったが、現実はこれだと認識する。
 寝汗をかいた、もうシャワーを浴びても平気だろう。考えをめぐらせながらベッドから降りると、テーブルに書き置きを見つけた。
 見慣れないパステルカラーの用紙に、見知った自体。


 藍沢先生は今日もお休み!

 ゆっくり体力の回復につとめること!

 仕事しちゃダメだからね!!


 声が聞こえてきそうな文字の運びに笑みがこぼれる。お前にだけは言われたくない言葉だ。
 明日会ったならなにを言おうか。世話になった礼か、無防備無頓着への忠告か、それとも。

 今日も自分はいられないその場所が、なるべく平穏であるよう心底から願った。