幕間 その秘書は兎角臆病にて
――――広津桃子は黒蜥蜴に所属する二十代の女性である。所属は広津のすぐ下となっており、十人長級の実力を持っているものの本人曰く伯父である広津を支えたいとのことで長らく出世せず、広津の直轄の部下としてその身をポートマフィアの為に使ってきた。首領の護衛部隊に選ばれたことも有る。しかしながら、桃子が直接ポートマフィアの首領である鴎外に声をかけられたのは初めてである。
最上階へと続く長い昇降機の中で色々考えてみる。兎角、有り得る可能性として昇格と、処分の二つが浮かんだ。しかしながら後者に関しては直近の任務で大きな失敗を犯しておらず、伯父からもこれはないと否定された。首領はお前を思ったよりも評価している、というのが伯父の談である。桃子が両親と死別していこう、親となってくれた広津の言葉を疑う気がない桃子は伯父に褒められているような気がして誇らしかった。では昇格の話だ。これは以前から度々持ち上がっていることで、自分の部下を持ってはどうかと勧められてはきた。だが、桃子としてはまだまだ伯父から学ぶことは多く、自分が部下の指導に向いている性質とは思っていない。同期の名前を上げるなら、元幹部の太宰や、現幹部である中原となる桃子だが、立身栄達に興味が為さすぎるせいで二人に比べずっと地味なものだ。たまに飲みにいく中原からは「首領直轄の遊撃部隊だってあるんだ」と勧められたが、何分にせよ桃子は自分が部下を持ち、彼等に指示を出し、というのが想像できずにいる。下働きのほうが気が楽でいい、というと中原は顔をしかめ「手前は欲がねぇ」という。欲がなくて悪いこともないだろうが、確かに自分も欲がないと思う。だが、伯父や同期の彼等に比べ、自分の異能力が戦闘向きではないことを桃子は理解している。花を操るだけの小さな異能だ。身体能力は高く、それこそ対異能力者を想定し汎ゆる訓練に身を投じてきたが、桃子自身の能力を考えれば対象の護衛・追跡を視野に入れた任務のほうがよほど向いていると言えた。もしも、伯父がそれを首領に進言したのだとすれば、桃子の次の配属先は、鴎外の護衛部隊である。直轄の部隊であるそこに移れば、確かに出世なのかも知れない。
――――長い昇降機が止まる音がして、桃子は後ろ手を組み、扉が開くのを待つ。黒服の銃口が向けられるが落ち着いて見返して「広津です。首領のお呼び出しに参上致しました」と告げる。彼等は何も言わずに銃を下げて道を桃子に譲った。もしかしたら、次は自分が此処に立っているのかも知れないなと桃子は軽く考えながら一歩踏み出した。
「いらっしゃい、桃子君」
森鴎外という男がにこにこと笑って桃子を出迎えた。首領の執務室へ呼び出されるのははじめてのことで、彼の几帳面な性格がよく出る整頓された広い部屋だった。執務机に腰掛けている彼へ礼をして、桃子は呼び出しの用件について問う。
「実は桃子君に護衛を頼みたい人物が居てねぇ。暫くは、彼女の護衛に専念してもらいたい」
「――――彼女?」
桃子はつい聞き返してしまった。護衛任務というのは大方想像がつく話だ。桃子の異能は誘拐される可能性のある人物の護衛によく向いている。――――まあ、拷問にも向いていると以前言われたこともあるし、実際にそういう使い方もしたことがあるがそれは割愛しよう。しかしながら鴎外から直接、執務室に呼び出されてまでの護衛対象について桃子が想像がつかなかった。それも女性と来たものだ。一瞬、鴎外の手奈児であるエリスのことが浮かんだものの、彼女にこれまで護衛がついたことは一度もない。ほとんど鴎外から離れないからだ。今、この場にいないのは仕事の話をするからと別室に移っているからなのだろう、と桃子は考えた。
「資料を渡そう」
およそコピー用紙がそのまま入れられるであろう大きな茶封筒である。鴎外からそれを差し出され、桃子は封を開けた。中には確かに資料が入れられている。顔写真付きの経歴書だ。桃子はそれらを取り出し、そして、気付いた。彼女は佐登暮。つい半年ほど前に鴎外の元で秘書をするようになった元一般人である。元、という表現はある意味おかしい。彼女は今でもポートマフィア内では相当異質な存在で、単なる下働きである桃子ですらその噂は耳にしている。実はとんでもない異能力を持っているのではないか、とか汎ゆる憶測を呼んでいるものの、信憑性に欠く噂ばかり。幹部である中原や紅葉すら、何故彼女が秘書になったのかは詳しく聞かされていないのだという。彼女については本当に差し障りのない、限りなく一般人である経歴しか出てこず、多くの構成員が首をひねっている。およそ鴎外の側近として傍にいるには実力がなさすぎる。戦闘訓練などもなく、当然銃も扱えない。あまりの経歴に、鴎外の愛人などという輩まで出る始末。
「私の秘書の佐登君だ。先日誘拐に遭ったのは知っているかな?」
桃子が頷く。
秘書が誘拐され、情報漏えいの危険にさらされた事の顛末は桃子も聞き及んでいる。回収のため鴎外が直接出向いたという話も。ポートマフィアの首領の予定から、幹部級の予定に始まり彼女が持っている情報はポートマフィアの暗部へと続いている。一般人に持たされるにしては身に余るものだ。そして、それは確実に狙われる。抵抗ができないと知られればそれは苛烈を極めるだろう。実際、この誘拐で彼女は全治二週間程度の怪我をしている。情報を一切吐かなかったのだというその精神力にはある意味感服するものの、些か不始末である。
「私は心配でねぇ。然しまだ彼女に対する不信の目は強い、表立って護衛をつけようとすると組織内で分裂しそうでね」
鴎外の懸念は尤もである。確かに佐登という秘書は秘書としてそれなりに働いているが、何かしらの見える結果を残している人物ではない。鴎外を守る盾としても見合わないような、守られるだけの人物に反感は強いだろう。鴎外が守ろうとすればするほど、組織内で反感を生み、最終的には分裂を招く。
「――――此れはまだ、組織内ではあまり公にしようとは思っていないのだが」と鴎外が前置いた。桃子は資料から顔を上げ鴎外を見る、真剣な表情をした鴎外にぐっと息を呑む。「暮は私の恋人なのだよ」
聞き返さなかった自分を非常に褒めてやりたい気分だった。表情は硬直していたに違いないが、聞き返しはしなかった。しかし、鴎外は今、なんと言っただろう。桃子はぐるぐると回りだした頭で必死に思考回路を作り出し考える。先程の鴎外を思い返せば、恋人と言ったのだろうか。しかも、佐登君ではなく、暮と呼ぶ。
まだ公にするつもりはない、と鴎外が言ったところを見ると、孰れは鴎外は佐登という存在がどういうものか組織内に広めるのだろう。今はその段階ではない、と言ったところか。何か時期を待っているのだろうか。とは考えてみるものの、鴎外の考えの真意など桃子には到底考えつかないようなもので、おそらくそこにたどり着けるのだとしたらあの小憎たらしい同僚であった元幹部の太宰くらいなものだ。
「心配なのだよ。私は彼女が傷ついた姿を見ると心が痛む」
「……はぁ」――――どう返すべきだったのか。心中お察しします、が正しかっただろうか。
「暮を巻き込んだのが私だと十分に理解はしているのだけれどね。桃子君には暫くの間、そう、お披露目の招宴まで彼女の護衛を務めてほしい」
お披露目、と鴎外は言った。確かに佐登はまだ秘書として組織内では知られているが、組織外で公然と鴎外の隣に立ったことがなかった。会議や、会合などについていくのである程度顔は知られているからこそ、誘拐も起こったのだろうが。お披露目をする意図はまさしく、恋人らしく振る舞わせることで、彼女に手を出すことがどういうことなのか、内外に知らしめる目的があるのだろうと桃子は察した。
「私、一人でしょうか」
このお披露目の招宴について、おそらく他組織がつかめば鴎外の秘書である佐登が一気に知られる。となれば、招宴前に何かしらの事件が起きる可能性も否定できない。なのに、護衛として呼ばれているのが桃子一人となればいくら護衛任務が向いているとは言えども、不安要素が多すぎる。
「一人の予定だよ。もちろん、不確定要素が多すぎて不安だろうが、今は彼女の精神状態を大切にしてあげたくてねね」
「……はい?」
「まあ、暮に会えばわかると思うよ」
鴎外はニコリと笑った。その意味がわかるのは一週間後に直接佐登と会う機会を鴎外から与えられてから知る事となる。
* * *
佐登は少しだけ辟易としていた。胡乱な目を向けられるのは何時もの事なのでもはや気にはしないようにと心がけるがあまりにも見られるので肩を丸めて、今すぐにでも逃げ去りたい衝動に駆られる。幼い頃から、この妙に確信のある未来の映像を見ていたせいで友人たちとの衝突も絶えず、事なかれ主義として生きてきたせいで人の視線がものすごい心理的圧力になる。鴎外の秘書になってからというものの、何故こいつがという視線にさらされることが多く、今の所は鴎外を慮ってなのか直接口にしてくる者はいないものの、そろそろ上級構成員から物陰に連れ込まれて暗殺の憂き目に遭っても仕方がないなと佐登は思っている。
佐登の異能力は限定条件下で未来を予測するという極めて稀なものだが、それを立証する手立てがない。鴎外は偶然にも未来予測の一端を見ており、それが確率として当たり続けていた為に信用してくれているが、本来であれば信憑性のないそれを公にするわけにも行かず、抑も佐登が操れていないのでいつ天啓が降ってくるかもわからない。故に佐登は何の力もないただの一般人が突然秘書になったようなものだ。幸いにも半年の仕事ぶりから幹部の尾崎や中原が評価をしてくれて、以前に比べれば不快な視線は減った。一寸前までだったら、一歩道を間違えるだけで自分の死が見えていたような毎日だったので、此処最近は心穏やかなものだ。
――――鴎外が、突然お披露目の招宴をする、などといい出さなければ。
事の発端は鴎外の恋人役の話を佐登が引き受けたところに始まる。公に広めるつもりはないが、だからといって内に留めておくことでもない、というのが鴎外の考えらしい。招宴では秘書として鴎外の傍にいることにはなる。公に広めるのは「秘書としての佐登」であるからだ。今まで招宴には言ったことがなく、会合などの取引のある業者でしか佐登は知られていないため、ある意味顔見世の意味合いも強い。顔を広く持ち、汎ゆる人物について把握するいい機会だと思えばいい。だが、鴎外が求める裏の意味は「恋人役としての佐登」である。にじませる程度でいいらしいが、そういう小さな異変こそじわじわと伝っていきやすい。直接口にするよりもずっと憶測を生み、佐登という人物の価値を実際よりも跳ね上げる。
秘書として汎ゆる情報を持ち、なおかつ鴎外の寵愛を受けている何もできない女。
なんて格好の獲物だ。鴎外の意図は理解できる。守るのが目的ではなく、より獲物を見つけやすくするための餌の役割を果たせと云うのだ。前回の誘拐でも、鴎外は最終的には利益を得た。何故ならばポートマフィアを害する組織を潰せたのだから。佐登は所謂客寄せパンダだ。今もきっと秘密裏に鴎外がじわじわと佐登の噂を広めているに違いない。当日の人入りは多いとの話を先程招待状の管理をしている総務課の方で聞いてきた。佐登自身に興味あるのではなく、佐登という人物を鴎外がどう取り扱っているのかという点で人が集まるのだ。場合によってはその場で何か起こるだろう、と中原に先程いわれたばかりだ。
(……まあ、首領としてはそうなってくれないと困るんだろう)
中原としては気をつけろという忠告の意味合いもあったのだろうが、鴎外の目的は完全にそっちである。佐登が何からの形で事件に巻き込まれてくれれば、これまで水面下で虎視眈々と反逆の機会を狙っていた組織を公然と潰すことが出来るようになるのだから。
執務室の前に戻って、佐登は一度叩敲して入室する。すると、ばっと見せられたのはワインレッドのドレスである。ビロード生地でデコルテを飾るのは黒の美しい綾織である。形的に云うならマーメイドタイプで、くっきりと躰のラインが出るだろう。持っているのは鴎外で、ぱっと華やいだ笑顔を浮かべている。
「あ、あの……?」
「招宴で着るドレスだよ。嗚呼、いいね、やっぱり作らせて正解だった」
作らせた、という言葉は聞き流した。佐登にぴたりと当てられたドレスはビロードに相応しい心地よい手触りだ。本来であればこんな素晴らしいドレスには触れる機会もないので感動してしまう。光沢が有るワインレッドのドレスはちゃんとした人が着れば本当に美しいものに違いない。着るのが自分ではきっと着られてしまうに違いない。
「大層すぎませんか?」
「何を言っているのかな? 招宴に招いているのはうちとの付き合いも長く、裏社会でも表でもそれなりの地位を持っている人物達だ。君は秘書として紹介するが、彼等はおそらく私の意図を理解するだろう。そのためにも、身なりには私が手をかけたとはっきりと分かるようにしなければね」
鴎外は手を伸ばす。ぐいと引き込めば佐登はドレスごと鴎外の方へと倒れ込んでくる。
「判っているのかな? 君は、一週間後私とこのドレスを着て踊るのだよ?」
想像がつかない。嗚呼、舞踏の確認もしなくては。ちゃんと、踊れるだろうか。今から不安で、緊張で心臓がどうにかなりそうだ。耳まで赤く染まるその表情は想像しなくてもわかる。鴎外は後ろからそっと腕を回して抱きしめる。その肩が震えた。わかりやすくて、扱いやすい秘書。恋人役にも向いている。その異能力を考えれば、鴎外にとっては利するところが多い。
(こういうことを考えるから、彼の人から心がないと言われるのだろうな)
鴎外は佐登に見えないところで微笑んだ。それでもなんと言われようとも、鴎外がそれを変えることはない。佐登は有用だから、そばに置く。その異能力が使いこなせるよう配慮しなくてはならないだろう。わかりやすいくらい、自分に熱のある恋心を向けてくる佐登に程よく返してやればいい。これが本物であると錯覚するくらい甘く、逃げられないように仮初めの愛を与える。
佐登の首筋にそっと、唇を添える。ちゅう、と強く吸い付けば、佐登の躰が硬直した。うっそりと微笑む。
深い夜が街を支配する時分。美しい光が煌めく
佐登の前に立っているのは黒い背広できちんと整えられた女性である。誰かの面影があるな、と思っていれば広津と名乗ったので、彼の血縁者と言われて納得がした。そういう面影だ。
「本日の護衛を致します」
護衛がつくのは判っていた。鴎外は一応、誘拐の危険は取り除こうとしてくれているらしい。誘拐されたほうが都合いいのではないだろうかと佐登は思うのだが、対面上恋人となる佐登を守らないわけにはいかない。広津の親族ならば信頼もあるのだろう。
「宜しくお願いします」
「こちらこそ、あの、佐登といいます。どうぞ、気楽に暮と呼んでください」
難しいとは判っているが佐登は桃子に向かって努めて笑顔でそういった。佐登秘書官、と呼ばれるのは堅苦しくて性に合わないというのもある。桃子は僅かに目を見開いた後、僅かに笑って「では暮さん、と」と言った。おそらくは人柄なのだろう。無理に堅苦しくしないでくれることはありがたい。彼女のほうが年下らしいが、ずっと年上に見えるなぁと考えながら少しだけ胸をなでおろした。
「準備は私がお手伝いしますので」
「すみません、お願いします」
ドレスを着るのは正直慣れないので、手伝ってくれる人がいるのがありがたい。化粧とか、髪とかも意外と大変なのだ。鴎外の隣に立つのに相応しい、そういう人間にならなければならないというのに。なれる気がしない自分に少しだけ嫌気が差す。少し表情を暗めた佐登に桃子が首を傾げるので、慌てて、表情を明るめて佐登は顔を上げた。できるだけ笑顔で問題ないことを告げれば、桃子はそれ以上聞いては来なかった。
非常に教育が行き届いている。おそらくは親である広津は桃子に対してきめ細かく言い聞かせたのだろう。
赤いドレスが目を引いた。桃子は佐登が衝立の向こうで着替えをしているのを見ながらその赤が酷く彼女を縛り付ける枷のように見せてならなかった。赤が、似合わないわけではない。だが、酷く彼女が赤を纏うことに抵抗感を覚えたのは気の所為ではないはずだ。
情報通りの限りなく普通の人。鴎外の隣に立つとするならば、些か見劣りすると誰もが思って仕方がないようなすこし怯えを含んだ瞳。これでポートマフィアの首領の秘書になろうと思ったのならば、ある意味その精神力に感服すると桃子は思った。決して彼女を悪く云うわけではないが、正直がっかりとした。鴎外が恋人にまでするような女性が、否、もしかしたら鴎外はこういう庇護欲を煽られる女性の方が好みなのだろうかと思った。しかしながら、寵愛するエリスは佐登とは真逆のつん、とした女の子だ。ふむ、と桃子は考えていた。
「すみません、桃子さん」――――呼ばれて、桃子ははっと顔を上げた。佐登が無防備に桃子に背を晒している。短い髪では背から、うなじにかけてがよく見えた。自分の技術があれば、今、此処で彼女を殺すことも不可能ではない。そんな思考を押しやるようにした時に、佐登が苦笑した。「チャック、あげてもらってもいいですか」
桃子は一歩近づいて、そっと佐登の肩に手をおいた。そのままチャックを引き上げると、背は赤いビロードと黒い綾織によって隠された。深い夜の色に導かれるように、佐登の表情が変わった。先程までの不安そうな表情を全てどこかへ追いやって、地に足がついたそういう表情をしている。深い夜のような藍色の瞳が鏡にうつる佐登という人物を冷徹に眺め、そして、目を閉じた。
「ありがとうございました」
「……いえ」
その一瞬の表情は桃子でも一瞬張り詰めた何かを感じた。ドレスを身にまとって余計に緊張しているのか、佐登が胸に手を当てて呼吸を整えている。腕を覆う綾織のイブニンググローブは黒く、まさしく今、彼女は鴎外という人物に塗り固められていた。椅子に腰掛けた佐登の髪を結い上げて、赤い花の飾りをつける。所々に光るルビィやアメジストのきらめき。首飾りは嫌味のないホワイトパール、イヤリングも同様のホワイトパールがあしらわれたものであった。全て装飾すると、印象ががらりと変わる。化粧が変わった、というのもあるだろう。仕事用の薄付きではなく、ワインレッドのドレスに敗けない赤いルージュが特徴の化粧だ。しっかりと引かれたアイラインのおかげで元々大きめな目がより際立って見える。
「……どうしました?」
「い、いえ。なんでも。そろそろ会場に向かわれるお時間ですが、何か確認したいことは」
「いいえ、大体は頭に入れてきたので。……失敗しないとも限りませんが」
できれば失敗はしたくないものだ、と佐登は苦笑した。すると、扉を叩く音がする。どうぞ、と一応部屋の主である佐登が返事をすると、燕尾服に身を包んだ鴎外であった。こうして、黒の燕尾服に身を包まれるとまさしく漆黒であり、夜という表現がまさしくふさわしい。佐登はその独特な空気に見せられるように、ぼんやりと鴎外を見つめてしまう。赤い、瞳が目に留まる。
「嗚呼、いいね」
鴎外が柔らかな声でいう。そして、白い手袋に包まれた手を佐登に差し出す。
「却説、君を見せびらかしに行こうか」
突き刺さる視線。
鴎外の手によって導かれ会場へやってきた佐登を待ち構えていたのは汎ゆる意味の含んだ視線だ。敵意・悪意・興味などなど汎ゆる意味を含む視線にさらされながら、佐登は一瞬怖気づいて逃げたくなった。だがここで鴎外の顔に泥を塗るわけには行かずに、毅然とした態度で居なくてはならなかった。動揺を表情に出してはならない、と佐登は深く息をついてから、ゆるゆると口元に笑みを浮かべた。
「そう、それで善いのだよ」
鴎外が笑う。手が震えているのも、足が逃げ出したいと願っているのも鴎外にはすでに判っている。それでも毅然と背筋を伸ばした佐登にゆるゆると微笑んだ。こうやって、顔を見せをするからこそ佐登の立場に意味を持つ。秘書としてばかりではなく、鴎外の恋人役として、更に言えば――――餌として。
鴎外の隣で来客への対応を内心はどうであれつつがなくこなしている佐登を少し離れた場所から見ながら、桃子は感心した。成程、と思わざるを思えない。確かに日頃の佐登は頼りないようなイメージがあるが、今、鴎外の隣に立っている佐登は少し印象が違う。毅然としていて、あの赤に着られている印象はない。秘書として、恋人としての意地なのか、それとも選ばれた自負がそうさせるのか。佐登は穏やかに微笑みながら、大手企業の社長と握手を交わしていた。
(……肩が、震えてる)
桃子はふと、誰からの視線も外れずにおびえているのだと気付いた。表情にも態度にも微塵も出さないまま、鴎外に促され秘書としてではなく、恋人としてその手を重ねた佐登はおそらく、強いのだろう。
鴎外の隣に、相応しい姿であろうとその人がどこか危うい気がした。
最上階へと続く長い昇降機の中で色々考えてみる。兎角、有り得る可能性として昇格と、処分の二つが浮かんだ。しかしながら後者に関しては直近の任務で大きな失敗を犯しておらず、伯父からもこれはないと否定された。首領はお前を思ったよりも評価している、というのが伯父の談である。桃子が両親と死別していこう、親となってくれた広津の言葉を疑う気がない桃子は伯父に褒められているような気がして誇らしかった。では昇格の話だ。これは以前から度々持ち上がっていることで、自分の部下を持ってはどうかと勧められてはきた。だが、桃子としてはまだまだ伯父から学ぶことは多く、自分が部下の指導に向いている性質とは思っていない。同期の名前を上げるなら、元幹部の太宰や、現幹部である中原となる桃子だが、立身栄達に興味が為さすぎるせいで二人に比べずっと地味なものだ。たまに飲みにいく中原からは「首領直轄の遊撃部隊だってあるんだ」と勧められたが、何分にせよ桃子は自分が部下を持ち、彼等に指示を出し、というのが想像できずにいる。下働きのほうが気が楽でいい、というと中原は顔をしかめ「手前は欲がねぇ」という。欲がなくて悪いこともないだろうが、確かに自分も欲がないと思う。だが、伯父や同期の彼等に比べ、自分の異能力が戦闘向きではないことを桃子は理解している。花を操るだけの小さな異能だ。身体能力は高く、それこそ対異能力者を想定し汎ゆる訓練に身を投じてきたが、桃子自身の能力を考えれば対象の護衛・追跡を視野に入れた任務のほうがよほど向いていると言えた。もしも、伯父がそれを首領に進言したのだとすれば、桃子の次の配属先は、鴎外の護衛部隊である。直轄の部隊であるそこに移れば、確かに出世なのかも知れない。
――――長い昇降機が止まる音がして、桃子は後ろ手を組み、扉が開くのを待つ。黒服の銃口が向けられるが落ち着いて見返して「広津です。首領のお呼び出しに参上致しました」と告げる。彼等は何も言わずに銃を下げて道を桃子に譲った。もしかしたら、次は自分が此処に立っているのかも知れないなと桃子は軽く考えながら一歩踏み出した。
「いらっしゃい、桃子君」
森鴎外という男がにこにこと笑って桃子を出迎えた。首領の執務室へ呼び出されるのははじめてのことで、彼の几帳面な性格がよく出る整頓された広い部屋だった。執務机に腰掛けている彼へ礼をして、桃子は呼び出しの用件について問う。
「実は桃子君に護衛を頼みたい人物が居てねぇ。暫くは、彼女の護衛に専念してもらいたい」
「――――彼女?」
桃子はつい聞き返してしまった。護衛任務というのは大方想像がつく話だ。桃子の異能は誘拐される可能性のある人物の護衛によく向いている。――――まあ、拷問にも向いていると以前言われたこともあるし、実際にそういう使い方もしたことがあるがそれは割愛しよう。しかしながら鴎外から直接、執務室に呼び出されてまでの護衛対象について桃子が想像がつかなかった。それも女性と来たものだ。一瞬、鴎外の手奈児であるエリスのことが浮かんだものの、彼女にこれまで護衛がついたことは一度もない。ほとんど鴎外から離れないからだ。今、この場にいないのは仕事の話をするからと別室に移っているからなのだろう、と桃子は考えた。
「資料を渡そう」
およそコピー用紙がそのまま入れられるであろう大きな茶封筒である。鴎外からそれを差し出され、桃子は封を開けた。中には確かに資料が入れられている。顔写真付きの経歴書だ。桃子はそれらを取り出し、そして、気付いた。彼女は佐登暮。つい半年ほど前に鴎外の元で秘書をするようになった元一般人である。元、という表現はある意味おかしい。彼女は今でもポートマフィア内では相当異質な存在で、単なる下働きである桃子ですらその噂は耳にしている。実はとんでもない異能力を持っているのではないか、とか汎ゆる憶測を呼んでいるものの、信憑性に欠く噂ばかり。幹部である中原や紅葉すら、何故彼女が秘書になったのかは詳しく聞かされていないのだという。彼女については本当に差し障りのない、限りなく一般人である経歴しか出てこず、多くの構成員が首をひねっている。およそ鴎外の側近として傍にいるには実力がなさすぎる。戦闘訓練などもなく、当然銃も扱えない。あまりの経歴に、鴎外の愛人などという輩まで出る始末。
「私の秘書の佐登君だ。先日誘拐に遭ったのは知っているかな?」
桃子が頷く。
秘書が誘拐され、情報漏えいの危険にさらされた事の顛末は桃子も聞き及んでいる。回収のため鴎外が直接出向いたという話も。ポートマフィアの首領の予定から、幹部級の予定に始まり彼女が持っている情報はポートマフィアの暗部へと続いている。一般人に持たされるにしては身に余るものだ。そして、それは確実に狙われる。抵抗ができないと知られればそれは苛烈を極めるだろう。実際、この誘拐で彼女は全治二週間程度の怪我をしている。情報を一切吐かなかったのだというその精神力にはある意味感服するものの、些か不始末である。
「私は心配でねぇ。然しまだ彼女に対する不信の目は強い、表立って護衛をつけようとすると組織内で分裂しそうでね」
鴎外の懸念は尤もである。確かに佐登という秘書は秘書としてそれなりに働いているが、何かしらの見える結果を残している人物ではない。鴎外を守る盾としても見合わないような、守られるだけの人物に反感は強いだろう。鴎外が守ろうとすればするほど、組織内で反感を生み、最終的には分裂を招く。
「――――此れはまだ、組織内ではあまり公にしようとは思っていないのだが」と鴎外が前置いた。桃子は資料から顔を上げ鴎外を見る、真剣な表情をした鴎外にぐっと息を呑む。「暮は私の恋人なのだよ」
聞き返さなかった自分を非常に褒めてやりたい気分だった。表情は硬直していたに違いないが、聞き返しはしなかった。しかし、鴎外は今、なんと言っただろう。桃子はぐるぐると回りだした頭で必死に思考回路を作り出し考える。先程の鴎外を思い返せば、恋人と言ったのだろうか。しかも、佐登君ではなく、暮と呼ぶ。
まだ公にするつもりはない、と鴎外が言ったところを見ると、孰れは鴎外は佐登という存在がどういうものか組織内に広めるのだろう。今はその段階ではない、と言ったところか。何か時期を待っているのだろうか。とは考えてみるものの、鴎外の考えの真意など桃子には到底考えつかないようなもので、おそらくそこにたどり着けるのだとしたらあの小憎たらしい同僚であった元幹部の太宰くらいなものだ。
「心配なのだよ。私は彼女が傷ついた姿を見ると心が痛む」
「……はぁ」――――どう返すべきだったのか。心中お察しします、が正しかっただろうか。
「暮を巻き込んだのが私だと十分に理解はしているのだけれどね。桃子君には暫くの間、そう、お披露目の招宴まで彼女の護衛を務めてほしい」
お披露目、と鴎外は言った。確かに佐登はまだ秘書として組織内では知られているが、組織外で公然と鴎外の隣に立ったことがなかった。会議や、会合などについていくのである程度顔は知られているからこそ、誘拐も起こったのだろうが。お披露目をする意図はまさしく、恋人らしく振る舞わせることで、彼女に手を出すことがどういうことなのか、内外に知らしめる目的があるのだろうと桃子は察した。
「私、一人でしょうか」
このお披露目の招宴について、おそらく他組織がつかめば鴎外の秘書である佐登が一気に知られる。となれば、招宴前に何かしらの事件が起きる可能性も否定できない。なのに、護衛として呼ばれているのが桃子一人となればいくら護衛任務が向いているとは言えども、不安要素が多すぎる。
「一人の予定だよ。もちろん、不確定要素が多すぎて不安だろうが、今は彼女の精神状態を大切にしてあげたくてねね」
「……はい?」
「まあ、暮に会えばわかると思うよ」
鴎外はニコリと笑った。その意味がわかるのは一週間後に直接佐登と会う機会を鴎外から与えられてから知る事となる。
佐登は少しだけ辟易としていた。胡乱な目を向けられるのは何時もの事なのでもはや気にはしないようにと心がけるがあまりにも見られるので肩を丸めて、今すぐにでも逃げ去りたい衝動に駆られる。幼い頃から、この妙に確信のある未来の映像を見ていたせいで友人たちとの衝突も絶えず、事なかれ主義として生きてきたせいで人の視線がものすごい心理的圧力になる。鴎外の秘書になってからというものの、何故こいつがという視線にさらされることが多く、今の所は鴎外を慮ってなのか直接口にしてくる者はいないものの、そろそろ上級構成員から物陰に連れ込まれて暗殺の憂き目に遭っても仕方がないなと佐登は思っている。
佐登の異能力は限定条件下で未来を予測するという極めて稀なものだが、それを立証する手立てがない。鴎外は偶然にも未来予測の一端を見ており、それが確率として当たり続けていた為に信用してくれているが、本来であれば信憑性のないそれを公にするわけにも行かず、抑も佐登が操れていないのでいつ天啓が降ってくるかもわからない。故に佐登は何の力もないただの一般人が突然秘書になったようなものだ。幸いにも半年の仕事ぶりから幹部の尾崎や中原が評価をしてくれて、以前に比べれば不快な視線は減った。一寸前までだったら、一歩道を間違えるだけで自分の死が見えていたような毎日だったので、此処最近は心穏やかなものだ。
――――鴎外が、突然お披露目の招宴をする、などといい出さなければ。
事の発端は鴎外の恋人役の話を佐登が引き受けたところに始まる。公に広めるつもりはないが、だからといって内に留めておくことでもない、というのが鴎外の考えらしい。招宴では秘書として鴎外の傍にいることにはなる。公に広めるのは「秘書としての佐登」であるからだ。今まで招宴には言ったことがなく、会合などの取引のある業者でしか佐登は知られていないため、ある意味顔見世の意味合いも強い。顔を広く持ち、汎ゆる人物について把握するいい機会だと思えばいい。だが、鴎外が求める裏の意味は「恋人役としての佐登」である。にじませる程度でいいらしいが、そういう小さな異変こそじわじわと伝っていきやすい。直接口にするよりもずっと憶測を生み、佐登という人物の価値を実際よりも跳ね上げる。
秘書として汎ゆる情報を持ち、なおかつ鴎外の寵愛を受けている何もできない女。
なんて格好の獲物だ。鴎外の意図は理解できる。守るのが目的ではなく、より獲物を見つけやすくするための餌の役割を果たせと云うのだ。前回の誘拐でも、鴎外は最終的には利益を得た。何故ならばポートマフィアを害する組織を潰せたのだから。佐登は所謂客寄せパンダだ。今もきっと秘密裏に鴎外がじわじわと佐登の噂を広めているに違いない。当日の人入りは多いとの話を先程招待状の管理をしている総務課の方で聞いてきた。佐登自身に興味あるのではなく、佐登という人物を鴎外がどう取り扱っているのかという点で人が集まるのだ。場合によってはその場で何か起こるだろう、と中原に先程いわれたばかりだ。
(……まあ、首領としてはそうなってくれないと困るんだろう)
中原としては気をつけろという忠告の意味合いもあったのだろうが、鴎外の目的は完全にそっちである。佐登が何からの形で事件に巻き込まれてくれれば、これまで水面下で虎視眈々と反逆の機会を狙っていた組織を公然と潰すことが出来るようになるのだから。
執務室の前に戻って、佐登は一度叩敲して入室する。すると、ばっと見せられたのはワインレッドのドレスである。ビロード生地でデコルテを飾るのは黒の美しい綾織である。形的に云うならマーメイドタイプで、くっきりと躰のラインが出るだろう。持っているのは鴎外で、ぱっと華やいだ笑顔を浮かべている。
「あ、あの……?」
「招宴で着るドレスだよ。嗚呼、いいね、やっぱり作らせて正解だった」
作らせた、という言葉は聞き流した。佐登にぴたりと当てられたドレスはビロードに相応しい心地よい手触りだ。本来であればこんな素晴らしいドレスには触れる機会もないので感動してしまう。光沢が有るワインレッドのドレスはちゃんとした人が着れば本当に美しいものに違いない。着るのが自分ではきっと着られてしまうに違いない。
「大層すぎませんか?」
「何を言っているのかな? 招宴に招いているのはうちとの付き合いも長く、裏社会でも表でもそれなりの地位を持っている人物達だ。君は秘書として紹介するが、彼等はおそらく私の意図を理解するだろう。そのためにも、身なりには私が手をかけたとはっきりと分かるようにしなければね」
鴎外は手を伸ばす。ぐいと引き込めば佐登はドレスごと鴎外の方へと倒れ込んでくる。
「判っているのかな? 君は、一週間後私とこのドレスを着て踊るのだよ?」
想像がつかない。嗚呼、舞踏の確認もしなくては。ちゃんと、踊れるだろうか。今から不安で、緊張で心臓がどうにかなりそうだ。耳まで赤く染まるその表情は想像しなくてもわかる。鴎外は後ろからそっと腕を回して抱きしめる。その肩が震えた。わかりやすくて、扱いやすい秘書。恋人役にも向いている。その異能力を考えれば、鴎外にとっては利するところが多い。
(こういうことを考えるから、彼の人から心がないと言われるのだろうな)
鴎外は佐登に見えないところで微笑んだ。それでもなんと言われようとも、鴎外がそれを変えることはない。佐登は有用だから、そばに置く。その異能力が使いこなせるよう配慮しなくてはならないだろう。わかりやすいくらい、自分に熱のある恋心を向けてくる佐登に程よく返してやればいい。これが本物であると錯覚するくらい甘く、逃げられないように仮初めの愛を与える。
佐登の首筋にそっと、唇を添える。ちゅう、と強く吸い付けば、佐登の躰が硬直した。うっそりと微笑む。
深い夜が街を支配する時分。美しい光が煌めく
佐登の前に立っているのは黒い背広できちんと整えられた女性である。誰かの面影があるな、と思っていれば広津と名乗ったので、彼の血縁者と言われて納得がした。そういう面影だ。
「本日の護衛を致します」
護衛がつくのは判っていた。鴎外は一応、誘拐の危険は取り除こうとしてくれているらしい。誘拐されたほうが都合いいのではないだろうかと佐登は思うのだが、対面上恋人となる佐登を守らないわけにはいかない。広津の親族ならば信頼もあるのだろう。
「宜しくお願いします」
「こちらこそ、あの、佐登といいます。どうぞ、気楽に暮と呼んでください」
難しいとは判っているが佐登は桃子に向かって努めて笑顔でそういった。佐登秘書官、と呼ばれるのは堅苦しくて性に合わないというのもある。桃子は僅かに目を見開いた後、僅かに笑って「では暮さん、と」と言った。おそらくは人柄なのだろう。無理に堅苦しくしないでくれることはありがたい。彼女のほうが年下らしいが、ずっと年上に見えるなぁと考えながら少しだけ胸をなでおろした。
「準備は私がお手伝いしますので」
「すみません、お願いします」
ドレスを着るのは正直慣れないので、手伝ってくれる人がいるのがありがたい。化粧とか、髪とかも意外と大変なのだ。鴎外の隣に立つのに相応しい、そういう人間にならなければならないというのに。なれる気がしない自分に少しだけ嫌気が差す。少し表情を暗めた佐登に桃子が首を傾げるので、慌てて、表情を明るめて佐登は顔を上げた。できるだけ笑顔で問題ないことを告げれば、桃子はそれ以上聞いては来なかった。
非常に教育が行き届いている。おそらくは親である広津は桃子に対してきめ細かく言い聞かせたのだろう。
赤いドレスが目を引いた。桃子は佐登が衝立の向こうで着替えをしているのを見ながらその赤が酷く彼女を縛り付ける枷のように見せてならなかった。赤が、似合わないわけではない。だが、酷く彼女が赤を纏うことに抵抗感を覚えたのは気の所為ではないはずだ。
情報通りの限りなく普通の人。鴎外の隣に立つとするならば、些か見劣りすると誰もが思って仕方がないようなすこし怯えを含んだ瞳。これでポートマフィアの首領の秘書になろうと思ったのならば、ある意味その精神力に感服すると桃子は思った。決して彼女を悪く云うわけではないが、正直がっかりとした。鴎外が恋人にまでするような女性が、否、もしかしたら鴎外はこういう庇護欲を煽られる女性の方が好みなのだろうかと思った。しかしながら、寵愛するエリスは佐登とは真逆のつん、とした女の子だ。ふむ、と桃子は考えていた。
「すみません、桃子さん」――――呼ばれて、桃子ははっと顔を上げた。佐登が無防備に桃子に背を晒している。短い髪では背から、うなじにかけてがよく見えた。自分の技術があれば、今、此処で彼女を殺すことも不可能ではない。そんな思考を押しやるようにした時に、佐登が苦笑した。「チャック、あげてもらってもいいですか」
桃子は一歩近づいて、そっと佐登の肩に手をおいた。そのままチャックを引き上げると、背は赤いビロードと黒い綾織によって隠された。深い夜の色に導かれるように、佐登の表情が変わった。先程までの不安そうな表情を全てどこかへ追いやって、地に足がついたそういう表情をしている。深い夜のような藍色の瞳が鏡にうつる佐登という人物を冷徹に眺め、そして、目を閉じた。
「ありがとうございました」
「……いえ」
その一瞬の表情は桃子でも一瞬張り詰めた何かを感じた。ドレスを身にまとって余計に緊張しているのか、佐登が胸に手を当てて呼吸を整えている。腕を覆う綾織のイブニンググローブは黒く、まさしく今、彼女は鴎外という人物に塗り固められていた。椅子に腰掛けた佐登の髪を結い上げて、赤い花の飾りをつける。所々に光るルビィやアメジストのきらめき。首飾りは嫌味のないホワイトパール、イヤリングも同様のホワイトパールがあしらわれたものであった。全て装飾すると、印象ががらりと変わる。化粧が変わった、というのもあるだろう。仕事用の薄付きではなく、ワインレッドのドレスに敗けない赤いルージュが特徴の化粧だ。しっかりと引かれたアイラインのおかげで元々大きめな目がより際立って見える。
「……どうしました?」
「い、いえ。なんでも。そろそろ会場に向かわれるお時間ですが、何か確認したいことは」
「いいえ、大体は頭に入れてきたので。……失敗しないとも限りませんが」
できれば失敗はしたくないものだ、と佐登は苦笑した。すると、扉を叩く音がする。どうぞ、と一応部屋の主である佐登が返事をすると、燕尾服に身を包んだ鴎外であった。こうして、黒の燕尾服に身を包まれるとまさしく漆黒であり、夜という表現がまさしくふさわしい。佐登はその独特な空気に見せられるように、ぼんやりと鴎外を見つめてしまう。赤い、瞳が目に留まる。
「嗚呼、いいね」
鴎外が柔らかな声でいう。そして、白い手袋に包まれた手を佐登に差し出す。
「却説、君を見せびらかしに行こうか」
突き刺さる視線。
鴎外の手によって導かれ会場へやってきた佐登を待ち構えていたのは汎ゆる意味の含んだ視線だ。敵意・悪意・興味などなど汎ゆる意味を含む視線にさらされながら、佐登は一瞬怖気づいて逃げたくなった。だがここで鴎外の顔に泥を塗るわけには行かずに、毅然とした態度で居なくてはならなかった。動揺を表情に出してはならない、と佐登は深く息をついてから、ゆるゆると口元に笑みを浮かべた。
「そう、それで善いのだよ」
鴎外が笑う。手が震えているのも、足が逃げ出したいと願っているのも鴎外にはすでに判っている。それでも毅然と背筋を伸ばした佐登にゆるゆると微笑んだ。こうやって、顔を見せをするからこそ佐登の立場に意味を持つ。秘書としてばかりではなく、鴎外の恋人役として、更に言えば――――餌として。
鴎外の隣で来客への対応を内心はどうであれつつがなくこなしている佐登を少し離れた場所から見ながら、桃子は感心した。成程、と思わざるを思えない。確かに日頃の佐登は頼りないようなイメージがあるが、今、鴎外の隣に立っている佐登は少し印象が違う。毅然としていて、あの赤に着られている印象はない。秘書として、恋人としての意地なのか、それとも選ばれた自負がそうさせるのか。佐登は穏やかに微笑みながら、大手企業の社長と握手を交わしていた。
(……肩が、震えてる)
桃子はふと、誰からの視線も外れずにおびえているのだと気付いた。表情にも態度にも微塵も出さないまま、鴎外に促され秘書としてではなく、恋人としてその手を重ねた佐登はおそらく、強いのだろう。
鴎外の隣に、相応しい姿であろうとその人がどこか危うい気がした。