ストレートアップ
かつん、とキューに突かれた白色の玉が転がっていき、九と書かれている玉がポケットの中へと落ちていった。それを少し離れた席から見ていた鴎外はそっと目を細める。階下で行われているのは賭けビリヤードであり、打ち手は中原である。彼は悠然と笑って、キューを肩に掛けると、対戦していた相手と握手を交わしている。相手もなかなかの腕だったように見えたが、と鴎外は思いつつもソファの隣側に腰掛けている佐登へ視線を向けた。
「中也君はああいうのもうまいねぇ。ね、暮」
「そ、そうですね」
僅かに緊張の孕んだ声でさらされている肩を震わせている。彼女にしては珍しいホルターネックの露出の高いドレスを身にまとっており、体から僅かに力を抜いて鴎外にしなだれかかっている。惜しげもなくさらされている白い肌に本人が一番緊張しているのだろう、表情や態度には滲ませていないものの、密着している鴎外にはその心臓が張り裂けそうなほど動いているのがわかる。たっぷりと開いている背中を手袋越しにつつ、となぞれば少し動揺した瞳を鴎外へ向ける。上ずった声を上げなかったのは、周囲にそれなりに人がいるからだろう。殆どが今回の招宴に招かれている鴎外――――ポートマフィアの取引相手である。取引相手たちの中では唯一、鴎外だけが年若い恋人を連れてきており、先程から周囲の視線が佐登に突き刺さっている。楽しげに佐登の腰を抱き、中原の賭けビリヤードを見ていた鴎外は階下で中原が鴎外に向かって一礼したのに対して片手を上げた答えた。
「愉しんでいただけておりますかな?」
「ええ、ええ、勿論ですとも。恋人も愉しんでいるようで、私も満足ですよ。後ほど、賭博場を見に行っても?」
「ええ、ぜひとも!」
――――ここは船の上。と或る取引相手の新しい船の処女航海の招宴に招かれたのである。
「――――船上招宴?」
ことの始まりは二週間ほど前に遡る。鴎外が差し出してきた手紙を受け取りながら、佐登は首を傾げた。確かに密輸を産業にしている取引相手が最近、賭博場の開設のため色々手を打っているという話を鴎外から耳にしていた佐登はこの船がいわゆる賭博場になるのだろう、とわかった。表向きは東京湾周辺をぐるりとクルーズを楽しむ遊覧船ということになっている。その処女航海が行われるため、ぜひとも日頃からお世話になっている鴎外を招きたい、ということが丁寧な手紙で綴られており、「最近囲われたと有名な青い鳥もどうぞ、お連れください」という一文で締めくくられていた。
「囲われた青い鳥?」
――――佐登は首を傾げた。鴎外と暮らしてすでに二ヶ月ほど経ってはいるが、鴎外は鳥など飼っていない。むしろ、潔癖の気配が滲む彼は動物のたぐいはあまり好かないだろう、と佐登は思っている。観賞用としては別にいいのだろうが、世話をするかと言われれば答えは否である。
「君のことだよ、」佐登のあまりの無頓着さに鴎外は苦笑しながらそう告げた。
その取引相手はかねてから付き合いがあるものの、佐登と会わせるにはいささかきな臭い企業でもあったので、鴎外はこれまでできるだけ接触は避けてきた。裏稼業に通じている相手で、佐登を連れて行った会合は実は少ないので、別段相手が特別というわけではないのだが、そろそろ隠し通すのも難しいか、と鴎外は思っている。招宴には裏稼業ばかりではなく、表の招待客も多いので、必然的に佐登は連れ歩いて秘書として振る舞わせているので抑も隠せてもいないか、と思い至る。
「私ですか?」
「恋人としての佐登暮が見たいんだろうねぇ。この招宴はおそらく夜の人間も多いだろう、彼らの目的は私が自分の懐に入れるまでに至った女は一体どんな女かな、というところだ」
佐登の表情に一気に緊張が滲んだ。
森鴎外の動向は常に探られている。どんな取引相手と会ったのか、どういう事業を始めたのか、どういった構成員がいて――――横浜の夜の監理者たるポートマフィアの首領であるということはそういうことだ。それでなくても、これまで秘書がいなかった鴎外に秘書ができて、その秘書が恋人の位置に収まり、あまつさえ一緒に暮らしているという情報は衝撃的なものだ。だから、それがどのような女性なのか、上手く行けば操って森鴎外に上手く取り入ることのできる人物なのか。その招宴は勿論、鴎外を招いて接待するためのもので間違いないが、実質佐登の行動は見られている。鴎外とどのような会話を交わし、行動をし、他者に対してどのような振る舞いをするのか。いつも以上に見られ、もしも彼らに対して侮られることとなれば、自分は鴎外の癌となるだろう。ごくり、と佐登の喉が鳴る。
「まあ、それはともかくとして暮、船での旅の経験は?」
「いえ……まったく」
「なら楽しむといいよ。いつもどおりに振る舞ってくれれば十分だよ」
鴎外がにこりと笑う。
「護衛は幹部会で改めて言うけれど、中也君と黒蜥蜴から一部隊、暮の専属護衛として桃子君をつける予定だ。紅葉君にはここに残ってもらって、私が不在の間の指揮を取ってもらう」
佐登は頷きながら、覚書を取る。
「私の専属護衛、ですか」
「勿論! 今回は秘書じゃなくて、恋人の君だ。私の誠意だと思って受け取りなさい」
「……はぁ」
「桃子君は扱いとしては世話役だからね」
「…………はい、」
この鴎外には何を言っても無駄だ、と佐登は表情を暗めて、二週間後の招宴のための準備を整える算段を通常業務と並行して行わざるを得ない状況に頭痛を感じるのだった。
(あ……改めて、舞踏とか、所作とか……確認しておこう)
ところ戻って、船内賭博場である。娯楽施設として認められている合法賭博場と、裏稼業の者たちのために用意されている違法賭博場がある。本日の処女航海には裏稼業の者たちが集められているため、違法賭博場も含め、全て解禁されている状態だ。VIP室から鴎外に連れられて階下の賭博場に降りてくると、老若男女問わず視線が突きつけられる。まるで無数のナイフの前にさらされているような気分にさせられるがそんな表情は微塵も出してはならない、鴎外に寄り添いながら佐登は賭博場の華やかな空気に目を見開いた。
「そういえば、暮を賭博場につれてきてあげたことはなかったねぇ。何か気になるものはあるかい?」
「ええっと……札遊戯なら、ある程度は遊戯として遊んだことはあります」
鴎外と佐登がそのようになんてこともないと言わんばかりに会話を進めるせいか、一瞬の静寂があった賭博場は再び喧騒を取り戻す。からからと玉の回るルーレットの音や、札を切る音、賭け事に熱中する参加者たちの喜びや残念がる声の喧騒の間を縫うようにして佐登と鴎外は連れ立って一通りの遊戯を見て回ることにした。給仕から笑顔で差し出されたシャンパンを手に持って佐登と鴎外は主催者に案内されながら進んでいく。
「どうでしょう、佐登様。愉しんでいただけていますか?」
主催者に話しかけられて、佐登は僅かに藍色の瞳をそちらへと向けた。ええ、と微笑んで見せれば主催者は裏稼業の人間とは思えないほどに人の良い笑みを浮かべた。
「どうだろう、暮も遊んでいくかい?」
「え?」
鴎外に話しかけられて、佐登はきょとんと目を見開いた。丁度中原も鴎外に合流してきたところで、彼も鴎外の発言に少し驚いたようだった。
「で、でも、私あまり賭け事は」
「暮の得意そうな遊戯、私知ってるよ?」
くすり、と笑った鴎外の人の悪い笑みに、佐登はひくりと喉を引きつらせる。嗚呼、これは絶対良からぬことを考えているな、などと思いながらも鴎外に腰を抱かれているせいで逆らうことも出来ないまま、鴎外に連れられてあっという間に佐登はルーレットの台へと座らされていた。
座らされた瞬間に佐登は鴎外の背広を引っ張った。ぐい、と顔が近づけば、よほどでなければ会話は聞かれないだろう。
「わ、私、賭け事は本当に……ま、まさか、異能力を使えと、」
「ルーレットも結局は情報の塊だ。君の異能力ならちゃんと予測できると思うけれどねぇ」
にこにこと笑う鴎外に何も言えなくなったのは致し方のないことだ。これ以上とない異能力の無駄遣い。何たることか。身体的な影響が出ない範囲でいいよ、と鴎外が言うものの、佐登は動揺して言葉も紡げない。異能力が上手く発動せず、ルーレットで勝てなかったら鴎外に恥をかかせてしまうんじゃないか、と考えていることが鴎外にはよく分かる。彼女はそういう人間で、そういう人間だからこそ、鴎外はそばに置いている。愛おしい、その藍色の瞳をゆっくりと見つめた。不安げにそまるその瞳がじっと鴎外を写し込んでいる。
「大丈夫、私の舞姫は勝利の女神だからね」
大きく見開かれた藍色の瞳。そして、少しずつ頬を赤くして、わなわなと震える。
「や、やらないわけに行かないじゃないですか……っ」
鴎外にそこまで言われて引き下がれない。ずるい人だ、そうやって言葉で人を操って。だがしかし、鴎外の言葉一つでこんなにも翻弄されてしまう自分が悪いのだと、佐登は知っている。大丈夫、ついているよ、と頬に口付けを落とされ、佐登は諦めて台へ向き直った。
小さく深呼吸。そして、小さく、「舞姫、」と彼女を呼び出すと、その腕が佐登の肩にかかる。鴎外にも、中原にも――――この中の誰一人として、認識することのできない佐登の思考そのもの。彼女は佐登の耳元でくすくすと笑い、そして、鴎外が口付けた頬に口付けてきた。少しだけ、胸に手を置いて、ゆっくりと目を閉じる。そしてゆったりと開くとその瞳は藍色から黄金へと変わった。思考が切り替わり、意識が切り替わる。佐登は台を見つめて、しばし観察した後、鴎外を見上げた。
「ルーレットは専用のチップを使うんだよ。すまないけれど、百万分用意してもらえるかな」
「ひゃっ、く?」
佐登が動揺して声を荒げそうになると、鴎外の護衛として着いている中原が苦笑した。
「ここは高レートだからな。抑も掛け金が一万からだ」
「鴎外さん……」
さっきまでやるしかないと思っていたが急に尻込みしてきた。出来ません、と言わんばかりに首を振るが鴎外はお構いなしだ。
「まあ、細かい規則はいいとして、暮はストレートアップだもんね」
「……まさか、数字の単発」
「そうそう。さぁ、最初の数字をどうぞ?」
ルーレットにおける数字の単発当てすなわちストレートアップは最高倍率の三十六倍である。ルーレットの専用チップが百万円分積み上げられると、佐登はぞっとした。最初の数字は、と言われ、素直に頭は予測を始めているのだが、気持ちがついていかない。心と頭がしっかりと乖離しており、なんとも奇妙な感覚がするものの、めまいや頭痛のたぐいではないので佐登は黙っている。
運命の決定は、ディーラーが玉を転がし始めてから。ルーレットの円盤が回り出し、その円盤にそっと添わせるようにして白い玉が放たれると、佐登は漸く予測を口にした。
「……では、四に、一万で」
「おや、消極的」
「…………」
恨めしそうに鴎外を見ている。鴎外はそんな佐登にくすりと笑いながら、チップを移動させる。高額チップを置いた後、回転が止まるまでの間、各々が好き好きにチップを置いていく。佐登以外にもそのテーブルは壮年の男性や若い男など様々な人がおり、それでも女性は佐登一人であった。皆、佐登の振る舞いに注目している。一万、と言った割には外れるつもりがない表情をしていることに、佐登本人が気付いているのかはわからないが、鴎外は少なからず自信有り気な理由を知っているため、ディーラーがベッド終了の合図を告げる前に、更にチップを積み上げた。
「お、鴎外さんっ、」
「ノーモアベッド、どうかお待ち下さい」
佐登の動揺を打ち切ってしまうように、ディーラーが無情に告げ、佐登はおとなしく椅子に腰掛けるものの、鴎外はくすくすと笑うばかりだ。大丈夫だよ、と言われても佐登としては不安でしかない。結局の所、十万のベッドとなり、回転が徐々に緩やかになり、しばらく玉が動き続け、そして――――四で、かたんと玉は落ちた。
「おめでとうございます、三十六倍、ストレートアップのお客様が出ました」
「……ええっと?」
「最終的に積んだのが十万。だから、三十六倍で?」
「……三百六十万」
平均的な会社務めの年収ではないだろうか、と佐登は思い至る。一回で、である。怖い。賭博って怖い、と佐登はいわんばかりの表情を浮かべて鴎外を見ている。
「流石は私の舞姫、言っただろう? 君はルーレットでは無敵だ」
お見事、と再度鴎外が佐登の頬に口付けを落とした。然し、佐登がここでもう一度遊戯をすれば、賭博場を荒らすことになるだろう、と鴎外は判っている。あまり荒らせば、主催者から反感も買いかねない、と鴎外はこれで十分だよ、といって佐登を立ち上がらせた。もうひと勝負、と誘ってくれた男がいたが、鴎外が笑顔で躱して佐登を連れ出した。
「大した運だったなァ、佐登」
VIP室へ戻ってくれば一連を見ていた他の客から佐登は拍手喝采である。ルーレットのストレートアップを初めてで、ということが大きかったか。その恵まれた幸運への拍手に後ろめたさを感じながら、佐登は優雅にお辞儀をしてみせる。そして、専用の個室に入りぐったりとしているとワイングラスを持って戻ってきた中原からその一言である。
「……え、ええ、そうですね」
中原は佐登の異能力について知らない。だから、佐登の先程のルーレットの結果は完全に運だと思っているのだろう。ルーレットのいろはも知らない佐登がルーレットで落ちる場所を予測するなんて不可能だ。抑も、佐登はディーラーが玉を投げた時、どの位置から投げられたかろくに見ていなかっただろうし、というのが彼の考えだ。ワインについて軽く鴎外に説明し、そのグラスへ注ぎ入れている中原へ申し訳無さと後ろめたさがとんでもないことになっているが、佐登はゆったりと体を持ち上げた。賭博場のお披露目が終われば、夜にはまた招宴が行われる。先程のルーレットの結果を招待客の殆どが見ていたから、招宴ではモテモテだね、と鴎外はのんきにワインを飲みながら言う。
「……他人事だと思って」
「真逆。私は私の恋人を守るのに必死にならなくては、と思ったところだよ」
――――むしろ、手を出されたほうが口実ができてよいのでは、という言葉をぐっと飲み込んだ。桃子や中原の前でする会話ではない。ほら、と中原から差し出されたワイングラスを受け取って、佐登は一口ワインを口に含んだ。これから招宴に向かう前にドレスを取り替えて、髪を整え直し、化粧もドレスに合わせて変えなくてはならないし、と色々思考し、そして、ため息を付いた。まだまだあの手の視線にさらされ続けなければならないし、明日横浜の港につくまではずっとこれが続くのだろう。
色々、様々な思惑がある招宴だ。賭博場でのふるまいからいささかマシになるかもしれないがそれでも探りを入れられることは明白なので、招宴でこそその振る舞いを求められている。鴎外が中原と桃子に退室を命じた。恋人の睦み合いを邪魔するつもりは微塵もない二人だ。何も言わずに外の警備はそのままにしておきます、とだけ告げて二人は出ていった。二人がいなくなると、鴎外は佐登の肩を抱き寄せた。
「緊張してるねぇ」
「誰の所為だと思って、」
るんですか、と続くはずだった言葉は鴎外によって飲み込まれてしまった。触れるだけの口付けに佐登は頬を赤くし、鴎外の唇に自分の着けていた赤い口紅が移ってしまったのをぼんやりと眺めた。嗚呼、なんて、赤の似合う人。
「私のせいで、心を乱してくれる暮を見ているのは結構好きだよ」
「……悪趣味です」
ふふ、と笑った鴎外がワインをそっと口に運ぶ。
「私としては、こうやってかわいい恋人を見せびらかす機会をもらったのだから存分に堪能しないとね?」
まったくもっていい笑顔でいらっしゃる。
佐登は少し脱力しながら、招宴までは存分に甘えなさい、休みなさい、という鴎外の言葉に甘えてその肩にそっと頭をあずけて、目を瞑るのだった。
「中也君はああいうのもうまいねぇ。ね、暮」
「そ、そうですね」
僅かに緊張の孕んだ声でさらされている肩を震わせている。彼女にしては珍しいホルターネックの露出の高いドレスを身にまとっており、体から僅かに力を抜いて鴎外にしなだれかかっている。惜しげもなくさらされている白い肌に本人が一番緊張しているのだろう、表情や態度には滲ませていないものの、密着している鴎外にはその心臓が張り裂けそうなほど動いているのがわかる。たっぷりと開いている背中を手袋越しにつつ、となぞれば少し動揺した瞳を鴎外へ向ける。上ずった声を上げなかったのは、周囲にそれなりに人がいるからだろう。殆どが今回の招宴に招かれている鴎外――――ポートマフィアの取引相手である。取引相手たちの中では唯一、鴎外だけが年若い恋人を連れてきており、先程から周囲の視線が佐登に突き刺さっている。楽しげに佐登の腰を抱き、中原の賭けビリヤードを見ていた鴎外は階下で中原が鴎外に向かって一礼したのに対して片手を上げた答えた。
「愉しんでいただけておりますかな?」
「ええ、ええ、勿論ですとも。恋人も愉しんでいるようで、私も満足ですよ。後ほど、賭博場を見に行っても?」
「ええ、ぜひとも!」
――――ここは船の上。と或る取引相手の新しい船の処女航海の招宴に招かれたのである。
「――――船上招宴?」
ことの始まりは二週間ほど前に遡る。鴎外が差し出してきた手紙を受け取りながら、佐登は首を傾げた。確かに密輸を産業にしている取引相手が最近、賭博場の開設のため色々手を打っているという話を鴎外から耳にしていた佐登はこの船がいわゆる賭博場になるのだろう、とわかった。表向きは東京湾周辺をぐるりとクルーズを楽しむ遊覧船ということになっている。その処女航海が行われるため、ぜひとも日頃からお世話になっている鴎外を招きたい、ということが丁寧な手紙で綴られており、「最近囲われたと有名な青い鳥もどうぞ、お連れください」という一文で締めくくられていた。
「囲われた青い鳥?」
――――佐登は首を傾げた。鴎外と暮らしてすでに二ヶ月ほど経ってはいるが、鴎外は鳥など飼っていない。むしろ、潔癖の気配が滲む彼は動物のたぐいはあまり好かないだろう、と佐登は思っている。観賞用としては別にいいのだろうが、世話をするかと言われれば答えは否である。
「君のことだよ、」佐登のあまりの無頓着さに鴎外は苦笑しながらそう告げた。
その取引相手はかねてから付き合いがあるものの、佐登と会わせるにはいささかきな臭い企業でもあったので、鴎外はこれまでできるだけ接触は避けてきた。裏稼業に通じている相手で、佐登を連れて行った会合は実は少ないので、別段相手が特別というわけではないのだが、そろそろ隠し通すのも難しいか、と鴎外は思っている。招宴には裏稼業ばかりではなく、表の招待客も多いので、必然的に佐登は連れ歩いて秘書として振る舞わせているので抑も隠せてもいないか、と思い至る。
「私ですか?」
「恋人としての佐登暮が見たいんだろうねぇ。この招宴はおそらく夜の人間も多いだろう、彼らの目的は私が自分の懐に入れるまでに至った女は一体どんな女かな、というところだ」
佐登の表情に一気に緊張が滲んだ。
森鴎外の動向は常に探られている。どんな取引相手と会ったのか、どういう事業を始めたのか、どういった構成員がいて――――横浜の夜の監理者たるポートマフィアの首領であるということはそういうことだ。それでなくても、これまで秘書がいなかった鴎外に秘書ができて、その秘書が恋人の位置に収まり、あまつさえ一緒に暮らしているという情報は衝撃的なものだ。だから、それがどのような女性なのか、上手く行けば操って森鴎外に上手く取り入ることのできる人物なのか。その招宴は勿論、鴎外を招いて接待するためのもので間違いないが、実質佐登の行動は見られている。鴎外とどのような会話を交わし、行動をし、他者に対してどのような振る舞いをするのか。いつも以上に見られ、もしも彼らに対して侮られることとなれば、自分は鴎外の癌となるだろう。ごくり、と佐登の喉が鳴る。
「まあ、それはともかくとして暮、船での旅の経験は?」
「いえ……まったく」
「なら楽しむといいよ。いつもどおりに振る舞ってくれれば十分だよ」
鴎外がにこりと笑う。
「護衛は幹部会で改めて言うけれど、中也君と黒蜥蜴から一部隊、暮の専属護衛として桃子君をつける予定だ。紅葉君にはここに残ってもらって、私が不在の間の指揮を取ってもらう」
佐登は頷きながら、覚書を取る。
「私の専属護衛、ですか」
「勿論! 今回は秘書じゃなくて、恋人の君だ。私の誠意だと思って受け取りなさい」
「……はぁ」
「桃子君は扱いとしては世話役だからね」
「…………はい、」
この鴎外には何を言っても無駄だ、と佐登は表情を暗めて、二週間後の招宴のための準備を整える算段を通常業務と並行して行わざるを得ない状況に頭痛を感じるのだった。
(あ……改めて、舞踏とか、所作とか……確認しておこう)
ところ戻って、船内賭博場である。娯楽施設として認められている合法賭博場と、裏稼業の者たちのために用意されている違法賭博場がある。本日の処女航海には裏稼業の者たちが集められているため、違法賭博場も含め、全て解禁されている状態だ。VIP室から鴎外に連れられて階下の賭博場に降りてくると、老若男女問わず視線が突きつけられる。まるで無数のナイフの前にさらされているような気分にさせられるがそんな表情は微塵も出してはならない、鴎外に寄り添いながら佐登は賭博場の華やかな空気に目を見開いた。
「そういえば、暮を賭博場につれてきてあげたことはなかったねぇ。何か気になるものはあるかい?」
「ええっと……札遊戯なら、ある程度は遊戯として遊んだことはあります」
鴎外と佐登がそのようになんてこともないと言わんばかりに会話を進めるせいか、一瞬の静寂があった賭博場は再び喧騒を取り戻す。からからと玉の回るルーレットの音や、札を切る音、賭け事に熱中する参加者たちの喜びや残念がる声の喧騒の間を縫うようにして佐登と鴎外は連れ立って一通りの遊戯を見て回ることにした。給仕から笑顔で差し出されたシャンパンを手に持って佐登と鴎外は主催者に案内されながら進んでいく。
「どうでしょう、佐登様。愉しんでいただけていますか?」
主催者に話しかけられて、佐登は僅かに藍色の瞳をそちらへと向けた。ええ、と微笑んで見せれば主催者は裏稼業の人間とは思えないほどに人の良い笑みを浮かべた。
「どうだろう、暮も遊んでいくかい?」
「え?」
鴎外に話しかけられて、佐登はきょとんと目を見開いた。丁度中原も鴎外に合流してきたところで、彼も鴎外の発言に少し驚いたようだった。
「で、でも、私あまり賭け事は」
「暮の得意そうな遊戯、私知ってるよ?」
くすり、と笑った鴎外の人の悪い笑みに、佐登はひくりと喉を引きつらせる。嗚呼、これは絶対良からぬことを考えているな、などと思いながらも鴎外に腰を抱かれているせいで逆らうことも出来ないまま、鴎外に連れられてあっという間に佐登はルーレットの台へと座らされていた。
座らされた瞬間に佐登は鴎外の背広を引っ張った。ぐい、と顔が近づけば、よほどでなければ会話は聞かれないだろう。
「わ、私、賭け事は本当に……ま、まさか、異能力を使えと、」
「ルーレットも結局は情報の塊だ。君の異能力ならちゃんと予測できると思うけれどねぇ」
にこにこと笑う鴎外に何も言えなくなったのは致し方のないことだ。これ以上とない異能力の無駄遣い。何たることか。身体的な影響が出ない範囲でいいよ、と鴎外が言うものの、佐登は動揺して言葉も紡げない。異能力が上手く発動せず、ルーレットで勝てなかったら鴎外に恥をかかせてしまうんじゃないか、と考えていることが鴎外にはよく分かる。彼女はそういう人間で、そういう人間だからこそ、鴎外はそばに置いている。愛おしい、その藍色の瞳をゆっくりと見つめた。不安げにそまるその瞳がじっと鴎外を写し込んでいる。
「大丈夫、私の舞姫は勝利の女神だからね」
大きく見開かれた藍色の瞳。そして、少しずつ頬を赤くして、わなわなと震える。
「や、やらないわけに行かないじゃないですか……っ」
鴎外にそこまで言われて引き下がれない。ずるい人だ、そうやって言葉で人を操って。だがしかし、鴎外の言葉一つでこんなにも翻弄されてしまう自分が悪いのだと、佐登は知っている。大丈夫、ついているよ、と頬に口付けを落とされ、佐登は諦めて台へ向き直った。
小さく深呼吸。そして、小さく、「舞姫、」と彼女を呼び出すと、その腕が佐登の肩にかかる。鴎外にも、中原にも――――この中の誰一人として、認識することのできない佐登の思考そのもの。彼女は佐登の耳元でくすくすと笑い、そして、鴎外が口付けた頬に口付けてきた。少しだけ、胸に手を置いて、ゆっくりと目を閉じる。そしてゆったりと開くとその瞳は藍色から黄金へと変わった。思考が切り替わり、意識が切り替わる。佐登は台を見つめて、しばし観察した後、鴎外を見上げた。
「ルーレットは専用のチップを使うんだよ。すまないけれど、百万分用意してもらえるかな」
「ひゃっ、く?」
佐登が動揺して声を荒げそうになると、鴎外の護衛として着いている中原が苦笑した。
「ここは高レートだからな。抑も掛け金が一万からだ」
「鴎外さん……」
さっきまでやるしかないと思っていたが急に尻込みしてきた。出来ません、と言わんばかりに首を振るが鴎外はお構いなしだ。
「まあ、細かい規則はいいとして、暮はストレートアップだもんね」
「……まさか、数字の単発」
「そうそう。さぁ、最初の数字をどうぞ?」
ルーレットにおける数字の単発当てすなわちストレートアップは最高倍率の三十六倍である。ルーレットの専用チップが百万円分積み上げられると、佐登はぞっとした。最初の数字は、と言われ、素直に頭は予測を始めているのだが、気持ちがついていかない。心と頭がしっかりと乖離しており、なんとも奇妙な感覚がするものの、めまいや頭痛のたぐいではないので佐登は黙っている。
運命の決定は、ディーラーが玉を転がし始めてから。ルーレットの円盤が回り出し、その円盤にそっと添わせるようにして白い玉が放たれると、佐登は漸く予測を口にした。
「……では、四に、一万で」
「おや、消極的」
「…………」
恨めしそうに鴎外を見ている。鴎外はそんな佐登にくすりと笑いながら、チップを移動させる。高額チップを置いた後、回転が止まるまでの間、各々が好き好きにチップを置いていく。佐登以外にもそのテーブルは壮年の男性や若い男など様々な人がおり、それでも女性は佐登一人であった。皆、佐登の振る舞いに注目している。一万、と言った割には外れるつもりがない表情をしていることに、佐登本人が気付いているのかはわからないが、鴎外は少なからず自信有り気な理由を知っているため、ディーラーがベッド終了の合図を告げる前に、更にチップを積み上げた。
「お、鴎外さんっ、」
「ノーモアベッド、どうかお待ち下さい」
佐登の動揺を打ち切ってしまうように、ディーラーが無情に告げ、佐登はおとなしく椅子に腰掛けるものの、鴎外はくすくすと笑うばかりだ。大丈夫だよ、と言われても佐登としては不安でしかない。結局の所、十万のベッドとなり、回転が徐々に緩やかになり、しばらく玉が動き続け、そして――――四で、かたんと玉は落ちた。
「おめでとうございます、三十六倍、ストレートアップのお客様が出ました」
「……ええっと?」
「最終的に積んだのが十万。だから、三十六倍で?」
「……三百六十万」
平均的な会社務めの年収ではないだろうか、と佐登は思い至る。一回で、である。怖い。賭博って怖い、と佐登はいわんばかりの表情を浮かべて鴎外を見ている。
「流石は私の舞姫、言っただろう? 君はルーレットでは無敵だ」
お見事、と再度鴎外が佐登の頬に口付けを落とした。然し、佐登がここでもう一度遊戯をすれば、賭博場を荒らすことになるだろう、と鴎外は判っている。あまり荒らせば、主催者から反感も買いかねない、と鴎外はこれで十分だよ、といって佐登を立ち上がらせた。もうひと勝負、と誘ってくれた男がいたが、鴎外が笑顔で躱して佐登を連れ出した。
「大した運だったなァ、佐登」
VIP室へ戻ってくれば一連を見ていた他の客から佐登は拍手喝采である。ルーレットのストレートアップを初めてで、ということが大きかったか。その恵まれた幸運への拍手に後ろめたさを感じながら、佐登は優雅にお辞儀をしてみせる。そして、専用の個室に入りぐったりとしているとワイングラスを持って戻ってきた中原からその一言である。
「……え、ええ、そうですね」
中原は佐登の異能力について知らない。だから、佐登の先程のルーレットの結果は完全に運だと思っているのだろう。ルーレットのいろはも知らない佐登がルーレットで落ちる場所を予測するなんて不可能だ。抑も、佐登はディーラーが玉を投げた時、どの位置から投げられたかろくに見ていなかっただろうし、というのが彼の考えだ。ワインについて軽く鴎外に説明し、そのグラスへ注ぎ入れている中原へ申し訳無さと後ろめたさがとんでもないことになっているが、佐登はゆったりと体を持ち上げた。賭博場のお披露目が終われば、夜にはまた招宴が行われる。先程のルーレットの結果を招待客の殆どが見ていたから、招宴ではモテモテだね、と鴎外はのんきにワインを飲みながら言う。
「……他人事だと思って」
「真逆。私は私の恋人を守るのに必死にならなくては、と思ったところだよ」
――――むしろ、手を出されたほうが口実ができてよいのでは、という言葉をぐっと飲み込んだ。桃子や中原の前でする会話ではない。ほら、と中原から差し出されたワイングラスを受け取って、佐登は一口ワインを口に含んだ。これから招宴に向かう前にドレスを取り替えて、髪を整え直し、化粧もドレスに合わせて変えなくてはならないし、と色々思考し、そして、ため息を付いた。まだまだあの手の視線にさらされ続けなければならないし、明日横浜の港につくまではずっとこれが続くのだろう。
色々、様々な思惑がある招宴だ。賭博場でのふるまいからいささかマシになるかもしれないがそれでも探りを入れられることは明白なので、招宴でこそその振る舞いを求められている。鴎外が中原と桃子に退室を命じた。恋人の睦み合いを邪魔するつもりは微塵もない二人だ。何も言わずに外の警備はそのままにしておきます、とだけ告げて二人は出ていった。二人がいなくなると、鴎外は佐登の肩を抱き寄せた。
「緊張してるねぇ」
「誰の所為だと思って、」
るんですか、と続くはずだった言葉は鴎外によって飲み込まれてしまった。触れるだけの口付けに佐登は頬を赤くし、鴎外の唇に自分の着けていた赤い口紅が移ってしまったのをぼんやりと眺めた。嗚呼、なんて、赤の似合う人。
「私のせいで、心を乱してくれる暮を見ているのは結構好きだよ」
「……悪趣味です」
ふふ、と笑った鴎外がワインをそっと口に運ぶ。
「私としては、こうやってかわいい恋人を見せびらかす機会をもらったのだから存分に堪能しないとね?」
まったくもっていい笑顔でいらっしゃる。
佐登は少し脱力しながら、招宴までは存分に甘えなさい、休みなさい、という鴎外の言葉に甘えてその肩にそっと頭をあずけて、目を瞑るのだった。