世界で、たったひとり。

 これは。
 これはまだ、リーヴがリーヴ・メーディアンと呼ばれていた頃の話。彼女はその頃、とある離宮の護衛兵団の団長だった。中佐にしては異例の出世だったと言えるだろう。本来なら、将官クラスであったはずだが、当時、リーヴ・メーディアンは軍部では腫れ物だったといえる。メーディアンという名は、ブリタニア皇族に於いては正しく忌むべき存在であり、本来であるなら軍属など以ての外。一兵卒として、戦争で使い潰されていてもおかしくないはずだが、彼女は離宮の守り手としてそこに存在していた。
 紅蓮の如き橙色の髪、翠玉の瞳、まるで少女の如き体躯であったが、彼女は正しくブリタニア軍人として、騎士として、多くのものの模範であったし、規範であった。ラウンズの呼び声もあったようだが、彼女は自らの出自を理由に固辞したという話はもはや多くのものに知られている。中佐以上の昇格がないこともまた、その出自に起因している。

 ――――本日も異常なし。
 離宮の見回りを兵団長自ら起こっていたリーヴは、晴天を渡り廊下から眺めてわずかに口元を緩めた。
 ブリタニア宮を中心に、セントダーヴィン通りに立ち並ぶ離宮の一つがリーヴの職場である。護衛兵の詰め所から、少し離れた離宮内庭園まで見回りを行ういつものルーティーン中に、リーヴはふと足を止めた。美しい庭園の広がりに、小さな少女の姿が見えたからである。
「リーヴ!」
 少女の声にリーヴは目を細め、そして即座に敬礼を執った。――――彼女は神聖ブリタニア帝国第二皇女、コーネリア・リ・ブリタニアである。少女のいで立ちとしては些か少年のような動きやすさを感じるパンツスタイルの彼女は庭園から渡り廊下まで走ってこようとする。リーヴは苦笑し、自身も渡り廊下から庭園に向かって歩き出す。
「コーネリア殿下、淑女がそう走り回ってはいけませんよ」
 ぱたぱたと走ってくるコーネリアがそのままリーヴに抱きついてくる。彼女はまだ五歳になったばかりで、色々と忙しくかまってくれない母よりも、護衛としてそばにいてくれるリーヴによく懐いていた。穏やかにそう窘めたリーヴに少しだけ頬を膨らませたが、コーネリアはすぐにわかっている、と言って離れた。
「だが、私はそういうのは好きではない……」
「知っておりますよ。妃殿下がそろそろ戻られますから、その玩具の剣はしまいなさいませ。リーヴまでお叱りを受けてしまいます」
「わ、わかっている!」
 コーネリアは慌てて、フルーレを模したおもちゃをしまい込んだ。彼女は蝶よ、花よと育てられる淑女教育よりも、先日華々しく功績を上げたナイトオブシックスのマリアンヌ閣下に憧れているらしい。母である妃殿下にバレれば何を言われることか……と想像は容易い。
「リーヴ、また時間があれば私に剣を教えてくれ」
「姫様のお望みとあらばリーヴはいくらでもお教え致しますが、今日のところはマナーの先生の元へ戻ってくださいませ。お母様が心配なさいますゆえ」
「……うむ。リーヴ、そこまでついてきてくれるか?」
「イエス・ユアハイネス」
 リーヴはコーネリアの三歩後ろをついて歩く。彼女の足取りは確りとしていて勇ましい。背筋がぴんと伸びているのがまた美しいと思わせるほどだ。
 皇族は生まれ持って皇族たる何かを持っていると思わされる。――――まあ、それがほんの一握りであることも、ブリタニア皇族では珍しいことではない。現皇帝には百八人の妻がおり、その子どもたちに皇位継承権が与えられている。コーネリアは第二皇女ということもあり、高い皇位継承権を持っているが、必ずしもそれが正しく振るわれるものなのかはわからない。
 今のまま育てはいずれ、自ら軍事に立つ姫になるのは火を見るよりも明らかだろう、とリーヴはその背を眺めながら苦笑した。

「では、私は行ってくる。すまなかったな、リーヴ」
「いえ、それでは頑張ってください、姫様」

 しかし。
 今はまだ五歳の子供だ。
 学ばねばならないことはたくさんあるし、選べる道は多くないのかもしれないがそれでも彼女には未来がある。それを応援してやれる大人であるべきだと、リーヴは思っている。マナーの講師が待っている部屋に少し憂鬱そうに入っていくコーネリアを見送って、リーヴは扉が閉まるまで、直立不動であった。

「中佐殿、メーディアン中佐!」

 聞こえてきた声に、リーヴは即座に顔をしかめた。
「……ダールトン少佐、ここは離宮だぞ。些か声が大きい」
「失礼いたしました!」
 見るからにリーヴよりも身の丈は倍程度はありそうな大男である。厳つい顔立ちをしているが表情そのものは、人懐こそうな……まるで犬のような表情を浮かべている。リーヴは静かにため息をつきながら、振り返るとそこにはアンドレアス・ダールトンが立っていた。
「……見回りならもう終わっているが」
「なんと! 何故声をかけて下さらないのですか!このダールトンがお供致しましたというのに!」
「……少佐はあの時間、丁度教練に参加していたのではなかったか?」
 リーヴが歩き出すとその後ろを、二メートル近い男が歩いてついてくる光景はある意味で異様だ。だが、この離宮に勤めている護衛兵も、使用人達も一様に見慣れているような表情を浮かべて、二人が歩いていくのを見守っている。
「メーディアン中佐は確かにお一人でも一個師団程度の力はございますが、それでも部下の帯同はされるべきですな」
「お前にそのようなことを諭されるとは思わなかったな。いつから、そんなに偉くなったのだアンドレアス・ダールトン」
 アンドレアス・ダールトンという男は、リーヴが担当する教育士官である。この離宮に配属されて間もなく、少佐までのし上がったのは大したもので、同輩の軍人達からは出世頭だと噂されている。――――彼はもう少佐であるので、自分の部隊を持ち、誰かを指揮する立場であるはずなのに、こうしてチラチラとリーヴの側に現れるのだ。
「中佐、今日は実はお話がございまして」
「……先日と同じ話ならば聞かないぞ」
「いいえ、先日とは違います。今回は結婚を前提に私とお付き合いをしていただけないかという交際の申し込みです」

 何度もこうして、プロポーズを受けている。

 リーヴは離宮内の兵の詰所に入ると、直属の部下が一人、リーヴから帯剣を受け取った。彼はダールトンを見て微笑ましげに瞳を細めた後に、一礼して執務室へと続く扉を開いて、
リーヴとダールトンが入るまで、見守った。
「何が変わったというのだ。結婚を前提に付き合え、というのはプロポーズと何が違う、ダールトン」
 リーヴは少々乱雑に上着を投げ捨てた。
 そのまま、執務机に向かう椅子へと腰かけた。それを追いかけるようにしてダールトンはリーヴと机越しに向かい合うようにして立っている。正直言って首が痛いのだが、そんなことを言うのは癪に障るので意地でも口にしないが。
「いいえ、いいえ。違いますとも、中佐。もしも交際している時にどうしても私が無理だと思ったらその時は別れていただいていいんですよ」
「…………」
「そして、そのまま私でも良いかと思っていただければ、そのまま結婚すればよいのです」
「……お前、とことん諦めが悪い男だな?」
 リーヴがそういうと、ダールトンは些か照れたように頬をかいた。褒めているわけではない、と先程ダールトンから提出されたばかりの報告書を決裁した。
「……はぁ」
「中佐殿は私など眼中にない、と?」
「……私は女としての幸せなどとうの昔に捨てている。結婚など興味もない」
「私個人は嫌いではない?」
「部下に嫌いも好きもあるか。皆平等に扱っている……と言いたいが、確かに手間のかかる部下は可愛いものだ。いっておくがお前のことではないからな」
 リーヴは他の報告書を眺めて、羽ペンにインクをつけた。
 それから暫くダールトンはそこから動かない。リーヴが書類仕事をしているのを直立不動で見ていた。

「……わかった。ダールトン」
「交際を了承していただけると!?」
 ダールトンが期待に満ちた目で、リーヴを見た。
「ダールトン、私は自分よりも弱い男、立場の低い男は嫌だ。だから、お前が私よりも上になり、将軍職も見えてきたその時ならば、快くその話を受けよう」
 そういうと、彼はきょとんとした顔をして、暫く無言であった。
「私は、どんな時でも自身のなすべきことを確りと為すことのできる男が好みだ。私はブリタニアに忠義を捧げた騎士だ。私に、二心を捧げさせるのだから、それくらいできる男でなければダメだ」
 リーヴはそう言って、サインを施した作戦書をダールトンへ返した。

「私を惚れさせるのだから、それくらい安いものだろう?」

 そう言って、ニヤリと笑って見せれば、ダールトンはぐっと言葉を飲み込んだ。
 そして、暫く悩んでいたようだったが、リーヴを力強い瞳で見返した。
「その言葉に、嘘偽りはございませんな?」
 男らしい、低い声が響く。リーヴは一瞬、きょとんとした後に、静かに頷いた。


* * *


「……ということを、久しぶりに思い出してな」
 寝る前の寝台で、ダールトンが苦笑した。
 あの頃とは違い、彼の顔には大きな傷がある。あれから、すでに二十年以上は経っており、リーヴは、リーヴ・M・ダールトンと名前が変わり、ダールトン夫人、などと周りから呼ばれるようになっていた。
「まあ、懐かしいことを」
「あの頃からリーヴは美しいままだ」
「……気持ち悪くはございませんか?」
 リーヴは、人よりもずっと歳を取る時間が長くかかる。ダールトンよりも十近く年上だというのに、その外見は二十代前半、もしかすると少女と見間違ってしまうくらいだ。リーヴはダールトンの隣に枕を並べて、いそいそとその隣に入り込む。小柄なその体型は大柄なダールトンに較べると本当に小さくて、ダールトンは当時、リーヴが剣を持って戦うことにある意味恐怖したこともあった。
「そうか? 幾つになっても愛する妻が美しいのは嬉しいものだが」
「……そういうところですよ」
 リーヴは恥ずかしがるようにして、シーツの中に潜り込むとそれを追うようにしてダールトンもシーツの中へと入った。腕を差し出すと、リーヴはそろそろとダールトンの腕の上に自分の頭を乗せた。
「明日はお早いのでしたね、」
「うむ、すまんな」
「いいえ。確りお勤めを果たしてくださいませ」
 そう言って、リーヴが控え目に唇にキスをすると、ダールトンは嬉しそうに目を細めた。