一 遠い日の唄

一話の終盤まで主人公が「翠琳」という雅号もしくは苗字で呼ばれます。
次回からはお名前変換で決定したお名前となります



 オレンジ色の夕陽が川沿いの土手を照らしていた。
 あまりにも見事な夕焼けだった。陽光を受けた川の水が、融解した金のような輝きを放ちながら、ゆるやかに流れてゆく。
 きれいね、と彼女は言い、そうだね、と私は答えた。

「……こうして話すのも、きっとこれで最後だね」

 うん、とだけ返して、唇を噛んだ。転校していく彼女に対して他に何と言えばいいのかわからなかったし、中三の半ばという大切な時期にする転校の背後には、複雑な事情がからんでいるだろうことが予想できたからだった。
 ほんの少しの沈黙のあと、自身の制服の襟に触れながら、彼女が口をひらいた。

「……最後だから、ひとつ聞いてもいい?」
「なんだい?」
「八木くんがいつも身体を鍛えているのは、なんのため?」

 どうしよう。なんと答えよう。
 同年代の少年少女の大半が有しているはずの個性。けれど、我々はお互いがそれを持たずに生まれてきたことを知っている。
 だが、いや、だからこそ、彼女には私の抱いている夢を、知っていてほしかった。

「象徴になりたいんだ」
「象徴?」
「うん。平和の象徴。いるだけで人々を安心させられるような、ヒーローになりたい」

 ふうん、と彼女は小さく答え、下を向いた。

「オールマイトという名を覚えておいて。そしていつか遠い未来に、その名を名乗るヒーローが現れたら……」
「それが、八木くんってことね」

 彼女の声に小さくうなずくと、わかったと答えて彼女は小さく笑った。夕焼けよりも、輝く川面よりも、ずっときれいに。

***

「そろそろか……」

 と、三の文字を指す短針を眺め、独りごちる。と、そこにセメントスの声が追いかけてきた。

「今日から笈内翠刻先生の代わりの方がいらっしゃるんでしたね」
「そうなんだ。校長が所用で出かけてしまったからね。私が対応しないと」

 笈内翠刻とは、我が校の日本文化研究部の指導をしてくれている外部スタッフの名だ。指導内容は、茶道、華道、書道の三つで、翠刻先生はそれらすべての指導資格を持っている。本業はお茶の先生で、初老――つまりは私と同世代の――女性である。
 その翠刻先生が、健康診断で見つかった良性の腫瘍を摘出するためしばらく休養を取るとのことで、その間、代わりの人が指導に来ることになっていた。

「しかし、笈内先生も急なご病気で、ご本人もさぞかし不安なことでしょうね。そのうえ、書、茶、花、すべての指導資格をもっている方を探すのは、さぞ難しかったでしょうに……」
「ああ。校長から聞いた話だと、お身内の方らしいよ」
「なるほど……そういう文化に身を置く一族の方なんですね」
「たぶんね。来てくれるのは、笈内翠琳さんと言って、本業は書道の先生だそうだ」

 校長から送られてきたURLをセメントスに見せながら、そう答えた。
 スマホの画面に展開されているのは、プロフィールページだ。簡単な経歴と書家の名前――おそらくは雅号だろう――が載っている。当人の写真はない。

 笈内翠琳。東京都出身。
 祖父である書家笈内立古に師事し、十八歳で雅号(翠琳)を授かる。
 国立筑馬大学芸術専門学群書領域にて、より広く書を学び、卒業後は立古の弟子である蓮琳の元で修行。数年ののち書道家として独立。
 現在はカルチャー教室や学校で書道を教えるかたわら、神社仏閣への奉納や企業への揮毫などを行っている。
 高校書道科教員免許あり。また茶道・裏壱家、華道・風月流、日舞・藤柳流にてそれぞれ師範資格を所有。

「おいくつくらいの方なんでしょう?」
「それは私もわからないなあ。女性であることだけは聞いてるけど」

 このプロフィールでは、本人の年齢や性別はおろか、本名すらわからない。しかし身辺に怪しいところがないことは、校長の厳しいチェックをくぐり抜けてきたことから明らかだ。

 と、その時、「失礼いたします」と若い女性の声が響いた。

「本日より日本文化研究部の指導をさせていただく笈内翠琳と申します」
「ああ。お待ちしておりま……」

 声の方を見ながら告げかけて、私は次の句を失った。
 なぜなら、声の主がかつて知っていた少女によく似ていたからだ。いや、正しく説明するならば、「その少女が大人になったらきっとこんなふうだろう」と長年思い描いていた姿そのものだった。
 年の頃は二十代後半から三十代前半くらい。
 たおやかでやさしげで、気品ある美女。

「……あの……なにか?」

 若き美女が怪訝そうに首をかしげる。いえ、と小さく答え、早足で職員室の入り口へと向かい、新たな日本文化部指導者に会釈をした。

「校長から話は聞いております。私はオールマイト。ヒーロー科の主任を務めております」

 そう告げて名刺を差し出すと、彼女は丁寧にそれを受け取り、続けて自身の名刺をこちらに差し出した。

「どうぞよろしくお願いいたします」

 こちらこそ、と小さく答えてから、活動場所に案内いたします、と新たな指導者を促して、歩を進めた。自らのうちに生じた微かな動揺を、相手に気取られないように。

***

「……たしかここにしまい込んでいたはず……」

 独りごちながら、押し入れの中から埃まみれの箱を引っ張りだした。
 ぱんぱん、と埃をはらってからフタをあける。予想通り、そこには中学と高校の卒業アルバムがしまい込まれていた。
 そこから中学の卒業アルバムを取り出して、もう一度軽く埃をはらう。と、間に挟まっていた写真がはらりと落ちた。

「……さすがに四十年以上も経つと、すっかり色あせてしまっているな」

 少年時代の甘酸っぱい思いがつまった一葉を眺め、ひとりごちる。
 彼女と私がふたりで写っているのはこの写真だけだ。中学最後の運動会のスナップで、徒競走のゴールの脇で二位の旗の前に座りピースサインをする女生徒と、体育委員として旗を持つ私が写り込んでいる。つまりは偶然の産物だ。淡い想いを抱いていた女の子の写真を誰からも疑われずに買えるようにしてくれた神様の計らいに、当時の私は心から感謝したものだった。

「ああ、やっぱり似てる」

 今日出会った女性……笈内の顔を思い浮かべながら、スナップにそっと触れた。
 目元も唇や鼻のかたちもよく似ている。写真の彼女からあどけなさを取りのぞいたら、きっと笈内のような顔立ちになるだろう。

「……そういえば彼女も、美しい文字を書くひとだったな」

 彼女の姓は婿星。
 個性と姓名がかぶることの多い世の常の通り、彼女は個性を持たずに生まれた。現在ほどではないが、無個性が珍しくなり始めた時代の、しかも多感な時期のこと……。本人がその名で呼ばれるのを嫌がり、同級生たちもまた、「無個性」の少女を同じ読みの苗字で呼ぶことを憚った結果、皆が彼女をファストネームで呼んでいた。むろん、私も含めてだ。
 同学年で個性がないのは私と彼女だけという環境ではあったが、あからさまな罵倒や嘲りを受けることはほとんどなかった。荒れた時代であったのにもかかわらずだ。その理由は、今でもよくわからない。
 けれど、個性のある子どもたちと私たち「無個性」との間には、見えない壁のようなものがあった。中傷を受けることがないかわりに、傷つけないよう気を使われていることを感じさせられることは多々あり、多感な時期であればこそ、そうした気遣いに逆に心を痛めたことも、幾度かあった。
 そんな中、個性のないふたりが距離を縮めていったのは、当然のことであったろう。
 だから、我々はよく話をした。放課後の教室で、通学路を歩きながら、そして東京湾へと流れる大きな川の土手に座って。
 それは恋愛と呼ぶには青くさく、ただの友情とするにはあまりにも甘酸っぱい、微かな想い。
 今頃彼女は、どこで、なにをしているのだろうか。

「……もしかして、笈内さんって人と結婚して、娘に翠琳っていう名をつけてたりしてね」

 口を突いて出た言葉の馬鹿らしさに気がついて、自嘲気味に息をつく。

「いずれにせよ、しあわせでいてくれているといいな」

 ぽつりと独りごち、私はその一葉を、押し入れの奥ではなくキャビネットの引き出しに納めた。
 特にたいした意味もなく。

***

「悪いけど、今日の放課後、日本文化部の見学に行ってもらえるかい?」

 そう校長から命じられたのは、本日、つまり金曜の朝のことだ。

 日本文化部の活動は、週に二回。火曜は茶道もしくは和服の着付けを、金曜は華道もしくは書道を、それぞれ行っている。

「それはかまいませんが」
「助かるよ。今日は午後から来客がある予定でね」

 外部から指導者を招いた場合、問題がないか様子をうかがうことがある。笈内翠琳先生が我が校に通うようになって早一ヶ月。指導の様子を見学するのも、管理職としての仕事の一環だろう。

*

「失礼」

 と、声をかけてから和室の戸を開けると、生徒八人と講師一名、合わせて十八の瞳が一斉にこちらに向けられた。
 彼女たち――日本文化部は普通科と経営科の女生徒によって構成されている――の前には、色とりどりの花と花器が置かれている。
 どうやら今日は、華道……いけばなの日のようだった。

「唐突にすみません。見学させてもらってもよろしいですか?」
「ええ。もちろんですわ。どうぞこちらに」

 翠琳先生が私を促した。それに小さく頷いてから、室内に身を滑らせる。

「邪魔にならないよう、隅で見させてもらいます」
「あら。せっかくですから、オールマイトさんも体験なさってくださいな」
「エッ?」

 そうだそうだと生徒たちからも声があがった。流れるような動作で、笈内翠琳先生が私の隣に歩み寄った。所作の美しいひとだな、と感心すると同時に、胸が高鳴る。

「今日はお休みの生徒さんがいるので、花材がひとつ余ってるんです。学校のお金で購入しているお花なので、いつもなら参加している部員でわけているんですが、先生が参加されるなら使っても支障はないでしょう」
「いや、しかし……」

 書道なら授業で習ったことがあるが、いけばななんてなにをどうしたらいいかまったくわからない。だが、そうこうしているうちに、生徒たちが座布団やら文机やらを出してきて、私の席をつくってしまった。

「オールマイト! ここどうぞ!」

 普通科の二年生が嬉しげに声をあげた。こんなふうにされて断るのも野暮だ。意を決して……というのは大げさだが、用意された席に座ると、生徒たちが水の入ったボールや花器を持って来てくれた。

「はさみはこちらをお貸ししますね」

 そう微笑みながら、至近距離で華道用のはさみを手渡してきた翠琳先生の口元には、ちいさなほくろ。

 あれ?、と思った。かつて私が淡い想いを抱いていた彼女も、同じところにほくろがあったはずだった。

「どうかされました?」
「いえ……。いけばなは初めてなので、どうしたらいいかわからなくて」

 さすがに「あなたの口元を見ていました」などと言うわけにはいかないので、そう応えた。

「大丈夫です。花型法なら簡単にそれっぽくできますよ」
「花型法?」
「基本の形のことです。いくつかあるんですが、一番始めに習うものにしましょう」

 翠琳先生がそう言って、テキストを広げた。しなやかな身体から、ふわりと立ちのぼるのは爽やかなハーブ系の香りだ。
 いかんいかん、と内心で首を振る。こんな雑念を抱いては、なにをしにきたのかわからなくなってしまう。
 俗な妄想にとらわれぬよう、心の中で己を叱咤し、手元の花材を凝視した。

「まず、花材の中で一番立派だと感じた枝を選んでください」

 これだと思う枝を選び、先生の指示に従って長さを整え小枝を落とした。それを指定された位置に刺し、また先生に言われるがまま角度をつける。次に二番目にいいと思える枝を選び、一本目の枝の三分の二ほどの長さにカットするよう言われたので、切ってから先ほどと同じように余分な枝葉を落とした。指示通り、左斜め前に角度をつけて刺してみる。と、なんだかそれっぽくなってきた。

「お上手ですね。あとはこちらのお花を短くして、葉をあまり落とさず右斜め前に入れましょう。そうそう、そこです。葉を残したから剣山が隠れるでしょう?」
「ああ……たしかに」
「これで主枝となる三本が入りました。後はテキストを見ながら従枝となる枝やお花を加えてみてくださいね」

 はい、と答えると、では、と小さく呟いて、翠琳先生が立ちあがった。反射的に「ええ……行っちゃうの?」と思ってしまった、そんな自分に苦笑した。
 一段落するのを待っていたのだろう、別の生徒が「お願いします」と声をあげた。翠琳先生が「はい」と答えてその生徒のほうに歩み寄る。去り際にまた、ほのかにハーブが香った。

 部活は終始和やかに進んだ。
 私も奥行きや高さのバランスを見ながら残りの花を剣山に刺し、なんとか作品を作り上げた。先生からの講評の時は生徒たちが手を止めて、ぱちぱちと拍手をしてくれる。そんなふうにされると照れるが、なんだか楽しい。
 生徒たちの作品も見せてもらったが、かわいらしかったり、優美であったり、アバンギャルドであったりと、それぞれの個性が出ていてとてもよかった。



「オールマイトが来るの、初めてですよね。いけばなに興味があるんですか?」

 文机や道具を皆で片付け、最後の挨拶をと座り直した時、生徒のひとりにそうたずねられた。
 校長に頼まれたと言ったら先生が気分を悪くするかもしれないと思い、身長に言葉を選ぶ。

「興味というより、日本文化部がどんなふうに活動しているのか気になってたんだ。想像していたとおり、和やかな雰囲気で楽しそうだね」
「楽しいです。今日はいけばなだったけど、書道や茶道はこれから先役立ちそうだし、着付けも洋服ではしないしぐさが身について、勉強になります」
 と答えたのは経営課の子だ。そこに普通科女子の声が割って入る。
「オールマイトさァ、今度はお茶の日に来てよ。おいしい和菓子も出るよ」
「いやあ、お菓子は数が決まっているものだろ? 私が来たら君たちの分が減っちゃうんじゃないか?」

 へーきへーき、と、女生徒たちはからっとと答える。と、一番奥にいた生徒が、微笑みながら口を開いた。

「先週、校長先生も来たよね」
「えっ? そうなの?」
「うん。お茶の日に。お茶を飲む仕草がめっちゃかわいかった」
「あー、わかる」

 校長のかわいらしさで盛り上がる生徒たちを横目に、軽く首をかしげた。なぜ校長は、自分でも様子伺いに来ていたのに、私に見学を頼んだのだろう。雰囲気が悪いとか、様子がおかしいというのならわかる。だが見る限りでは、この部活、特に問題はなさそうだ。

「ホラホラ皆さん、おしゃべりはそのへんにして、そろそろお仕舞いにしましょうね」

 先生の声に生徒たちが一様に「はい」と声をあげた。そして皆が居住まいを正し、両手をついて「ありがとうございました」と座礼をする。先生も美しい座礼を返して、「それではまた、来週」と微笑んだ。
 おお、なんだか「古き良き和のお稽古事」という感じ。おじさんこういうの嫌いじゃない。
 背筋が伸びる思いで、私も「ありがとうございました」と頭を下げた。

*

「今日はありがとうございました。いい経験になりました。生徒たちものびのび楽しそうに活動しているだけでなく、礼も学んでいるようで感心しました。先生のご指導の賜物ですね」

 もう少し話していたいような気がして、けれどしつこいと思われたくもなくて、和室の灯りを消して廊下に出た彼女に、そう告げた。
 木箱の中に貸し出し用のはさみやワイヤーをしまっていた先生に、もう一度礼を言った。

「まあ、ありがとうございます。光栄ですわ。オールマイトさんのご活躍はずっと拝見しておりましたもの」
「そう言われると、なんだか照れますね」

 するりと言葉が滑り落ち、私は頭をかいた。心なしか、顔が熱い。褒め言葉なんて、聞き慣れているはずだ。なのにこんなに胸が高鳴ってしまうなんて。先生が初恋の彼女によく似ているからだろうか。

「先生は他の学校にも指導に行かれているんですか?」

 これで会話を終わらせるのが惜しい気がして、歩きながら当たり障りのなさそうな質問をした。

「週に一度、東海文化大附属高校の書道講師をしています」
「ああ、中国との交流で有名な学校ですね。前々から書道に力を入れているとか……」
「ええ。書道は日本だけでなく、韓国やベトナムでも独自の発展をしていますが、もともとは中国を起源とするものですからね」
「先生は中国で学ばれたこともあるんですか?」
「残念ながら、わたしは日本書道だけで手一杯です」
「そうなんですか」
「はい」

 質問の仕方がまずかったのか、そこで会話が途切れてしまった。
 困った。別の話題をと思うのだが、なぜだか話題が浮かんでこない。初対面の人間と会話することには慣れているはずなのに、なんたるざまだ。

 しかたなく、互いに無言のまま、歩を進めた。目の前の階段をおりると、教員用の昇降口はすぐそこだ。ここで別れてしまったら、臨時の指導者である彼女と話せる機会は、おそらくもうないだろう。

「つかぬ事をお聞きしますが」

 必死に話題を絞り出し、声を上げた。声はうわずっていなかっただろうか。

「その……翠琳というお名前は本名なんですか? 素敵なお名前ですが、本名としたらやや個性的なので」

 慌てていたとはいえ、ずいぶんとツッコんだことを聞いてしまったが、果たしてこの話題は大丈夫だろうか。気を悪くしたり、不審がられたりしていないだろうか。
 それにしても先ほどからなぜこれほどまでに緊張し、必死になっているのか、自分でもよくわからない。

「翠琳は雅号です」

 幸いにも、私の質問は受け入れてもらえたようだ。小さく微笑みながら彼女が続ける。

「本名は哉子といいます。笈内 哉子」
「ええっ?」

 自らの口から、頓狂な声と鮮血が飛び出した。いやはや、こんなに多くの血を吐くのは実に久しぶりのことだ。

「オールマイトさん? 大丈夫ですか?」

 笈内哉子が慌てたように私の背に手を当てる。だいじょうぶ、と答えて、口元をハンカチで拭った。

「申し訳ない。少しびっくりしたものだから。…………実は中学の時、あなたと同じ名前の同級生がいましてね」
「……」
「婿星哉子さんといって、けっこう仲がよかったんですよ。当時はよくわかっていませんでしたが、今にして思うと、私は彼女に淡い恋心を抱いていたようで……。そんな彼女とあなたが同じ名前なことに驚いてしまって、思わず声を上げてしまいました」

 あなたによく似た美しい少女でした、とはさすがに言えはしなかったが、恋心云々はさすがに余計だったようだ。笈内哉子は戸惑ったような表情で、私を見上げている。まずいな、と思うと同時に、全身から汗がどっと噴き出した。

「あの…………」
「あ、いや。恋心は余計でしたね。急に私的な話をしてしまい、すみません。変な意味ではなかったんですよ」
「いや……そうじゃなくて」
「吐血も驚かれたでしょうが、私にとってはよくあることなので……不快な思いをさせてしまって申し訳ない」
「いや……そっちも違くて……」

 急にくだけた言葉使いになった彼女が、気まずそうに軽く眉を上げた。

「わたしです…………」
「え、なにがです?」
「婿星哉子はわたしです……。八木くん、わたしのこと覚えていてくれたのね……」
「ええええええ?」

 思いもかけない発言を受けて、私は先ほどの五倍もあろう血を吐きながら、その場でド派手にひっくり返った。

2026.10.4
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月とうさぎ