『ユキくん内定おめでとう』
「ようやくだよ。ありがとう」


俺を見かけると、低いヒールのパンプスを鳴らしながら駆け寄ってきた。


どうしても就きたい職があって、それを待っていたら周りに置き去りにされていた。特に焦ってはいなかった。
名は就職に焦ることない組。進学じゃなくて、結婚するんだってさ。


『わたしも就活しようかなぁ』
「玉の輿に乗るっていうのに?」
『オフィスレディだよ!キャリアウーマン!かっこいいじゃん』


働いてみたら、働きたくないって毎日思うだろうに変な子だね。


名とは中学からの仲だ。嘘みたいにずっと同じクラス。
大学だって、立海大附属大じゃないのに、入学から暫くして講義が同じになって笑いあった。
立海にいる間はあまり話すことはなかったけれど、講義をきっかけに随分と仲良くなった。


凛とした佇まいでふわふわと髪とスカートを揺らしている。
制服では気付かなかったけど、名は立派なお嬢様だ。仕草も何もかも上品だ。
そんな名と距離が近くなるほどに彼女を好きになった。彼女の結婚が心から祝えるはずがなかった。


許婚というほどではないけれど、親の付き合いで彼女は結婚させられる。
羨ましいけど、憎いよそいつが。
名はその人をいい人だと言う。
誰だって言うさ。いい人だって。
数回会っただけの人間の何がわかると言うのだ。俺だって、数回会うだけで名と結ばれるならばいくらだっていい人を演じる。


『ユキくん難しい顔してるね。変な課題あった?』
「え?いや、問題なく終わってるよ」
『じゃあ、飲みに行こう!ユキくんの内定祝い!』


ぐいっと俺の腕を引き、歩き出した名。
カフェやバーを好まない彼女は俺とよく行く個室の居酒屋に向かっていく。まだ夕方だって言うのに。


『イエーイ!ユキくん内定おめでとう!』
「どうしたの、そんなにテンション上げて」


乾杯の音頭で向かい合って座る名のグラスとぶつける。あまり綺麗な音は鳴らなかった。
豪快な乾杯をしたが、カシスオレンジを少しずつ飲む姿は女性らしいなと思う。
しかし、名はすぐに酔うから空腹の時にお酒は入れないのに、どうしてこんなハイペースでお酒を入れるのだろう。


『んー、ユキくんといるの、もうちょっとで終わりなんだなって』


グラスの結露を指で弄びながら、片方の腕は頬杖をつき、どこか哀しげに滑り落ちる結露を見つめていた。


『結婚、嫌だな。わたしの顔だけだよ、顔!綺麗なお嬢様ですねなんてさ、あんたはブツブツだらけの顔で見つめちゃって』
「名、声」


荒げていた声に気付き、いくら個室だとはいえ薄い仕切りがあるだけだ。
名は唇を尖らせて、言葉を飲み込んだ。

結婚の話、名が嬉しそうに話していないのには気付いていた。
女の子は誰だって好きな人との結婚に憧れる。彼女の好きな人は知らないけれど、やはり無理矢理結ばれるのは嫌なようだ。


『ユキくん、酔った勢いで抱いてくれない?』
「なっ!」


嬉しいお誘いだけれど、何を言っているんだ。
寂しげに揺れる瞳に、アルコールが回り色付いた頬に生唾を飲む。

名にいつか想いを告げ、その肌に触れたいと思っていた。
だけど、こんな形で名に誘われるなんて思ってもみなかったし、こんな形で抱こうとも思わない。

考え直すように説得すれば、ポロポロと瞳から涙が溢れ出していた。
料理を持ってきた店員さんに驚かれ、泣き上戸なんですと愛想笑いで速やかに追い返した。


名の涙を拭いてあげるために、ハンカチを持って彼女の隣に座る。
ハンカチを差し出すより先に名が俺の胸に飛び込みシャツで涙を拭う。
どこにそんな力があるのか。背中に回った細腕が強く強く俺を抱きしめる。
痛くはない。だけど、これほど苦しいことはないと思う。

頭を優しく撫でれば嗚咽が聞こえてきた。
落ち着くまで背中をさすったり、優しく叩いた。


「何を急いでいるんだい?」


落ち着いたらしい名に問いかける。
真っ赤で腫れた目の名が俺を見つめる。あとでその目を冷やさないと。


『好きな人と少しだけ幸せになりたいの』


目を合わせることなくそう言った。


『ユキくんが好きなの。ずっと前から。中高はとても話しかけられなかったし、大学もユキくんが立海からいなくなるから受験したの』


名が俺に好きだと言った。それも中学から。いじらしいね、本当。


「俺、そんな気持ちで名を抱きたくない」
『……そう』


軽く胸を押して、名は俺から離れた。
また泣き出しそうな瞳。下唇を噛み、必死に涙を堪えていた。


「結婚から抗ってみないかい?」
『そんなの……』


できるはずがないと言う前に彼女の唇を指で塞ぐ。
俺にはいい考えがある。


その日彼女を抱くことなく、一度断られた以上名は誘ってくれなかった。
それ以降少しぎこちなくなった名に少し胸が苦しめられる。
この苦しみから解放されるために俺は行動に出た。


『ユキくん聞いてよ』


しばらく経ったある日。二限ギリギリに滑り込んできた彼女はどこか嬉しそうだった。


『破談になったの!向こうが脱税してたらしくって親がそんなところに嫁がせませんって!』


堪え切れなくなって俺に抱き着く。ニヤけた口元を片手で隠し、教授が教壇に立っているのも構うことなく、俺は空いた手で名の頭を撫でた。


さすが俺の友達だよね。粗探しは簡単だった。
ついでに名の結婚相手の顔も見た。あー、よかった。こんな奴が名に触れる前にどうにかできて。
本当なら一発殴ってあげたいところだけど、もっと残念な顔になりそうだったからやめてあげたし、名に触れるための俺の手が汚れるのは勘弁。


このまま名が抱きついたままでもいいんだけど、さすがに支障が出るので引き剥がした。


「就活始めるの?」
『もちろん!難しいかもしれないけど、頑張るよ』


カフェテリアでみんなが鬱々としながら求人票を見ているというのに、彼女は嬉々として最新の求人票を眺めていた。


「ねぇ、名」
『ん?』
「今、フリーだよね。俺と付き合わない?」


彼女は半月に目を歪ませ、頬を染めて笑った。