『へー、もうあと筆記だけ?』
「そ。絶対大丈夫だと思うけど」
『わたしも精市なら大丈夫だと思う』


精市の腕の中には参考書よりも厚いマニュアル免許の教科書が抱かれていた。

学割が使えたって高い自動車免許の取得。
精市はバイトでコツコツとお金を貯めて、三年生になろうという春にようやく教習所に通い始めた。

こんなに高い身分証明書はないよと、彼が笑ってから一ヶ月経っただろうか。
春休みを使えば意外とサクサク進むようで、もう最終試験まで辿り着いていた。


難しいと耳にする筆記試験。真面目で何でも器用にこなせる精市ならきっと大丈夫だ。


ちなみにわたしは教習所に通ったことがない。あれば今後の就活に便利なのだろうけど、自宅に車はないし、公共機関で不便に思ったことがない。


『精市は車に興味あるの?』
「ああ。男の子だからね」
『スポーツカーとか似合いそうね』
「ゆくゆくは乗ってみたいね。跡部に言えば貸してくれるかな」


からからと彼は笑ったけれど、そういう日はきっと近いのだと思う。

精市に引っ付いて一度だけその跡部さんに会ったことがあるけど、あの跡部財閥の御子息様で、自ら運転することはないとは言え、耳にしたことのあるブランド車のコレクションを見せてもらったことがある。
私有地であるために、精市の後輩の赤也くんが運転していた。
遠くから見ていたけど、国産車を運転する親の姿を見てなんとなくわかるならまだしも、左ハンドルの外国車なんだから事故を起こさないかヒヤヒヤした。

精市の運転はきっと大丈夫だろう。でも、コートに立つと性格変わるから、ハンドルを握れば変わるかもしれない。


「じゃあ、教習所に行ってくる」
『うん。絶対大丈夫だよ』


校門で精市と別れバスに乗り込んだ。
さぁ、今日は月末提出のレポートをするぞ!


そう意気込んでみたものの、ダラダラと先延ばしにされていくレポート。その上からまた別のレポート。
休日も返上でパソコンに向かい、雑に放り投げた参考文献をチラ見していた。


午前零時過ぎ。突然携帯が鳴り、バイブレーションで机から飛び降りようとしていたところを受け止める。
危ない。下の人、いつもイライラしててこの時間スリッパで動くだけで文句つけてくるんだよな。

受け止めた拍子に受話器を取っていたのか、スピーカーから聞きなれた声がした。


『もしもし、どうしたのこんな夜中に』
「ベランダ、出てみてよ」


精市の言われた通りにベランダから顔を出す。三階から見下ろした先にハザードランプを点けた車とそれに寄りかかって手を振る精市の姿があった。

わたしは明日怒鳴られると知らず、慌てて戸締りをして、エスカレーターを待つ時間も惜しくて階段を駆け下りた。


「そんな薄着じゃ風邪ひくよ」


キャミソールのワンピース一枚だけをまとっていたわたしに、肩にかけていたカーディガンを精市がしていたようにかけてくれた。


『若葉マーク』
「仕方ないだろ、取ったばかりなんだから」


ひっそりと車体に貼られた若葉マーク。外車でもスポーツカーでもないこの自動車。家族と乗るには少し小さい気もする。


もう運転席に乗り込んでしまった精市に助手席に座ることを促され、遠慮がちにシートベルトを締めた。

目的地を言うことなく発進する車。
何だか妙な緊張感。運転に集中する精市に話しかけていいのやら、見つめていいのやら。


「買ったの。中古だけど」
『え、すごい』
「本当はさ、教習所に行くぐらいだったら二十歳までに貯まってたんだけど、どうせならって」


反射したフロントガラス越しに精市の顔を見る。どこか楽しそうに微笑んでいて、寝ててもいいよと言ってくれた。
連日のレポートのための夜更かしで寝不足気味だったので、お言葉に甘えて目を伏せた。


「起きて」
『ん』


優しく肩を揺すられ目を開ける。まだ外は真っ暗だ。
どこへ連れてきたのだろう。車内の明かりばかりで街灯が見当たらない。
エンジンが切られ、あたりは一層真っ暗で静かになった。


『わぁ!』


車から出れば、天の川が空を覆っていた。こんなにはっきりとした天の川を見るのは初めてだ。

口を開けて見上げていたのか、精市の笑い声が隣から聞こえた。

もっと広いところに行こうかと、精市に手を握られ促されるままに歩き出す。彼の足元は携帯のライト照らされ、芝やシロツメクサみたいな低い草に覆われた丘のようなところみたいだ。

立ち止まった精市はライトを消した。
より深くなる闇。気付かなかった、今日は新月のようだ。だから、より一層星の瞬きが強く見えたのか。


「ね、名」
『何?』


暗い中でも精市の顔はよくわかった。だけど、深い青色の髪は闇に溶けて星屑がきらめいていた。
思わずその美しさに見惚れていれば、髪を片耳にかけられ、耳たぶがぎゅっと締め付けられる。
何?と思いその耳を触れば小さな金属音がした。


「格好悪いことしたくなかったからイヤリングにした」
『格好悪いこと?』


精市はわたしの左手を取り、薬指に口付けをした。わたしは精市の顔と、キスされた指を交互に見つめる。


「サイズ合わないとかダサいじゃん」


眉間にしわを寄せて奥歯を噛み締める仕草。悔しいときに見せる表情かと思えば、精市の場合は照れ隠しである。
でも、悔しさも情けなさもあるのかな。なんせ複雑な顔をしている。

もう片方の耳にもイヤリングが付けられ、精市の手が離れる時に寂しそうに金属は泣いた。


「いつかきちんと指輪をはめる。だからその時は、世界で一番幸せにしてあげる」


わたしは追い風に背中を押され精市の胸に飛び込んだ。
多分もう世界で一番幸せなんだと思う。呼吸が苦しくなるくらい胸がいっぱいなのだ。この気持ちは多分精市のシャツを掴む手から伝わっている。
嬉しくて涙が出そう。だけどぐっと堪える。泣くべき時はこの先にある。


『もっと欲張りに幸せ者になる日を待ってる。だから、わたしが精市を幸せ者にできる日を待ってて』
「ああ。もちろん」


精市はもう一度左手の薬指に口付けをしてから、わたしの唇にも落とした。