「名」
『ちゃんとやるのでマジ許して下さい』
「許す?何をだい?俺としてはとても大きな幸運に恵まれていると思うんだ」
瞼を伏せ胸に手を当てる精市くんの姿はさながら大聖堂の絵画のよう。ルネサンスの画家たちは挙って彼の今の姿を描いただろう。
そんな後光さえ見える神の子、幸村精市を目の前にしたわたしはきっと顔が青いのだろう。
一応わたしは今絶望の淵に立っている。
どうしてかって、数学で赤点を取り、再試験がない代わりに補習のプリントをしこたまいただいたせいである。自業自得と笑うなら笑え。
藁にもすがる思いで手伝ってくれる人を求めているのだから、この目の前の聖人に縋るべきなのだと思う。
だけど無償でやってくれるほど神は優しくない。お賽銭はいるし、お供え物も必要である。
八百万の神がいるなら、わたしは神を選ぶ権利は大いにあると思うのだが、この目の前の男は自分以外の神はいないとばかりにわたしを阻むのだ。
「俺はバカな女の子が好きだよ」
わたしの髪をくるくると指に巻きつき遊びながら、わたしへの制裁を考えているのだろう。
少しずつわたしの体温が下がっていくのがわかる。たらりたらりと背中に汗が伝う。
「ここまでくるとね、わざと赤点を取って誘ってるのかなって思うよ」
『けっしてわざとなんてそんな自滅するような真似はしないよ』
「わかってるよ。さ、一緒にやろうか」
わたしの利き手にシャープペンをしっかり握らせて、ぴたりと身体をくっつけた幸村くんとプリントに向き合う。
精市くんは教え方は上手だと思うし、これなら次は解ける!って思うんだけど、わたしの数学拒絶体質のせいで寝たら忘れている。
忘れるその度に根気強く教えてくれる。投げ出さないようにわたしだって頑張っている。
あれよあれよというまにプリントの束は片付いていった。
精市くんは本当にいい彼氏だと思う。付き合ったきっかけは何であれ、彼はわたしを大切にするし、わたしも精市くんを大切にしている。
「おしまい。頑張ったね」
肉刺の出来た大きな手で頭を撫でてくれる。ここまではいい。ここまでは。
「いい?」
『ま、待って!』
いい?なんて聞きながら、よくなくてもするのだ。
後頭部に回った手と顎を掴む手に頭を固定され、近づいてくる精市くんの顔に顔が熱くなっていく。
わたしは固く目を閉じ、これ以上頭が湧いてしまわないようにした。
『んっ』
どんなに固く噤んでいようと舌先でこじ開けられる唇。
自分の意思と関係なく漏れる声や、震える身体にさらに熱くなる。
『ぷは……』
「ふふっ、いやらしい」
ポケットに入ったハンカチで口元を拭う。
「プリントを提出してこようか」
『うん』
「立てない?相変わらずだな」
『う……精市くんのせいだから』
「そうだね、俺のせいだね」
また精市くんは頭を撫でる。
ちらりと彼を見やれば、にやつくのを隠そうと頬の肉を噛んでいるのだろう。押しあがった下まぶたが隠せていない。
「続きは家でね。早く帰るよ」
『つ、続きって何よ!』
「わからない歳じゃないだろ?はい、立って歩く」
精市くんに手を引かれ、つんのめりそうになりながら職員室へ向かう。
『優しくしてよ』
「善処するよ」
『えっ……』
妙に優しく笑う精市くんに顔の熱が一気に引いた気がした。
「俺の彼女が単位落としそうとかありえないからね。次は赤点取らないようにきっちり仕込んであげるから。本来今日はデートだったのにね」
『う……』
「ほら行くよ」
『はぁい』