「お疲れ様でした!」


誰よりも早く更衣室でユニフォームから制服に着替え、カバンを引ったくり更衣室を駆け出した。


「何を慌てていたんだ精市は」
「天文部のほうだろう。今夜は天体観測らしい」
「夜更かしは感心せんな」
「19時には更ける。放っておけ、弦一郎」


誰も居ないし、少しだけ階段を駆け上がってもいいよね?
二段飛ばしで駆け上がり息が弾む。運動後の心拍と、夜でも名の側にいられる高揚感で、心臓は忙しなく動いている。


「お疲れ様です!」


あまり授業で使われることのない物理学室の重い扉を開ける。


『走ってきたの?お疲れ様』


そこには天文図を広げた名しか居なくて、乱雑に机の上に乗ったカバンから見て部員たちは来ているとみた。
もしかして、先に屋上に上がっている?テニス部を優先して遅れる旨は部長に伝えているけど、置いていかれたと思うと寂しいものだ。


『もしかしたら8時前から雨が降るかもしれないから、早めにセッティングするんだって』


それを伝えるだけのために名はここで待っていてくれたの?確かに部長と葛西先輩ぐらいしか面識がないから、その他の部員がここで座って待っていても認識ができない。
メールの一通でも入れておけばいいのに、適当に暇を潰して待っててくれるんだから。可愛い。


『よーし!久しぶりの天体観測だー!』


鼻歌を歌いながら、名は俺の手を引いて教室を後にする。

学校での天体観測が決まってから名はずっと張り切っていた。去年は一人で見ていたんだから、大勢で見るのは楽しみなのだろう。


『精市くんの手、あったかーい』
「もう春なのに名の指先は冷たいね。末端冷え性?」
『そうでないと信じたい』


空いている指先も冷たいのか、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
冷え性ならば好都合だ。何癖つけて手を繋げるし、身体も寄せ合える。あまりにも酷いものなら、労ってあげなくちゃ。
冷えは女の子の敵だ。足先の冷えは真っ先に子宮に触れ、左手の冷えは心臓に行くという。名の身体に何かあったら、闘病中の自分に重ねてしまいそうで、どうしようもなく遣る瀬無い気持ちになるだろう。


『精市くん、そんなに力入れなくてもあったかいよ?』


無意識に強く掴んでいたらしい。名の手の甲に指の跡が残った。


「痛かったね、ごめん」


俺の手ごと名の手を持ち上げ、赤くなった場所に唇を寄せる。指先ほど冷たくはないけれど、温かいと言うには心もとない。

唇を離して名の顔を見れば、目を丸くして口を噤んでいる。耳まで真っ赤にして、俺を見つめていた。

あれ?初めてキスした時よりずっと驚いてない?
それに、唇以外の場所にするのはこれが初めてじゃない。顔中、首筋、指先にもキスをしたと思う。

手が繋がってるからかな。俺の頬もなんだか熱くなってきた。


『せ、精市くんの唇、熱いね』
「そう、かな?」


名は俯き気味で、何とか言葉を紡いだといった様子だ。
なんだよ。付き合いたてのカップルかよ!

名の手が冷たいから、俺の唇が熱く感じたんだ。なんて、論破できるはずもなく、なんともむず痒い空気が日暮れの廊下に滞留する。

そんな空気を振り払いたくて、俺は名の手を引いてズンズンと階段を上がる。
涙が出てしまいそうなくらい熱くなった顔と、うっすらと背中に浮いた汗は歩いて起こる風で引いていけばいい。
早く屋上の風に当たりたい。だけど、天文部員には見られて欲しくない。

これで名が平気そうな顔をしていたら腹が立つな。
ほんの少しだけ振り返り名を見た。ポケットに入っていた手を頬に当て、熱を交換していた。

今ほど冷え性が羨ましいと思ったことないよ。