『桜散っちゃったね』
「でも、今年は雨もなくて長く咲いてたね」
まだ若い青葉が桜の木を飾り始め、授業も中学のおさらいから、高校の基礎へ変わり始めた。
精市くんは5月の地区大会に向けて猛練習に励んでいるため遅くまで練習している。朝だって早い。
お昼ご飯だけはと二人で約束しているのだけど、放課後を丸々練習にあてるせいか、ミーティングでそれさえも難しくなっている。
わたしは週に一度でも精市くんとのんびり過ごせればと思っているのだけど、精市くんのほうはそうもいかないらしい。
でも決して、わたしを優先してテニスを蔑ろにするのではなくて、テニスを優先して見つけた合間にわたしを補給しにくる。
「名は寂しいとか思わないの?」
『丸っ切り会えないのは寂しいけど、近くにいるんだろうなって安心感で平気だよ。練習は見てるし』
「俺は寂しい。欲張りに生きるって決めてるんだ」
精市くんの瞳から強い意志を感じて、ある約束をしてしまった。週に一度のわたしからキスをする日。
思わずその時、そんなことでいいの?と聞き返してしまったけれど、全くそんなことではない。一大事だ。
精市くんがミーティングの火曜日。彼が最もニコニコになる日。
「名、約束したよね?」
『うっ』
テニス部の部活が始まるまでのほんの少しの時間。天文部の部室である物理学室に二人きりで向き合う。
今日は天文部の活動日ではないし、補習や部員も顔を出さないから、この広い立海で二人きりになるには格好の場所である。
早くと急かす精市くんは部活のためなのか、己のためなのか。
『目、瞑ってよ』
「近くなったら瞑るから」
もう握りこぶし一つ分の距離しかないのに一向に瞑ってくれる様子がない。視界いっぱいにある精市くんの顔が相変わらず綺麗すぎて、彼の目元を手で覆い隠した。
「ん。……ほっぺたか」
不服そうにわたしの唇の触れた頬を指でなぞる。
キスはキスでしょ!と言おうとした言葉を飲み込んでしまったのは、もの悲しげに頬を撫でる姿が扇情的で、もっと触れ合いたいと思って、なんか、いないんだから。
「どうかした?顔、真っ赤だよ」
『何でもない』
自分でもわかっている。夕日のせいと言い訳できない程度に顔が赤いこと。
ぷいとそっぽを向いてみるものの、精市くんが楽しそうにクスクスと笑っているのだ。
より赤さを増したであろう頬を手で隠す。
「ねーえ、名」
わたしの手を取り、指先が湿った何かに触れる。
振り向いて見ればわたしの指先を唇に押し当て、弧を描きならが笑う精市くんとカチリと目が合う。
「次はこっちにお願いね」
指先が触れたまま口を開くから、少し湿った指先に生ぬるい吐息がかかり、何とも言えぬ、へその奥からこみ上げる何かに背中がくすぐったい。
「俺は欲張りだからね。名なら何でもいいけど、たくさん求めちゃうからね」
唇に触れるだけのキスを残して精市くんは部室を去って行った。
呆然と去る後ろ姿に手を振り、膝から崩れ落ちるのだった。