「姓、精市に何をした」
『朝言われたことをしただけなんだけど』


柳は大きくため息を吐いた。

被服室にやってきたジャージ姿の柳はなんだかボロボロで、壮絶な試合をしたと見えるが、なんだかそれだけではない様子だ。


「精市を黙らせる方法か」
『うん』
「簡単なことだ。しかしな、お前の羞恥心次第だ」


今日の朝の会話の一部である。


幸村のスキンシップや言動にはほとほと困っていた。
夏休みのデートを境になんだか激しくなった。先日はほっぺにキスをされたし。
教室では大真面目に結婚するんだなんて言うんだ。冷やかすどころか、幸村だからなのか、祝福の言葉を受ける。


「名!今日のおやつは何?」


ジャージに着替えた幸村がひょこりと被服室に顔を出す。
ここの所毎日こうやって遊びに来る。
確かに家庭科室よりも外から覗きやすい場所にあるけど。
それに付き合ってわたしも毎日お菓子を焼いてみたりする。
朝ごはんとかのついでだし。わたしもここの所演劇部の衣装作りを手伝わされ、遅くまで学校に残ってるから、わたしのおやつのついでだし。


『今日はバームクーヘンだよ』
「家でできるものなの?」
『芯さえあれば、卵焼きのやり方でできるよ』
「へぇ」


幸村はグラシン紙の中に入ったバームクーヘンを嬉しそうに見つめている。
こう言う時の幸村って、なんだか周りにお花が舞ってるんだよなぁ。


『幸村ってさ、もうすぐプロになるための試合なんでしょ?』
「何でそれを」
『噂とインフルエンザは蔓延するよ』


丸井も仁王もそんなこと一言も言っていないけど、彼らに群がる女子の一人がそんなことを言っていた。
なんとなく聞き流していたけど、どうして何も言ってくれなかったのだろう。


『無責任かな。なれるよ、幸村は』
「どうかな。U-17に出た時に、プロとして通じるかわからなくなったよ」


自信なさげに幸村は笑った。
他校の同級生のプロとしてドイツに飛んだ手塚くんのを見て、自分に彼ほどの覚悟があるかわからないらしい。
世界と自分の実力。わからなくもなるのかな。


『精市くん』
「えっ、」
『頑張れ』


唖然とした彼の背中を押して被服室から追い出した。


「ね、ちょっと名!?」
『さっさと行け!真田に怒られるよ!』


「余計なことをしてくれたな」


柳から結構強めのチョップを頂戴した。ほんの少しだけ涙が浮かんだ。
柳は鼻を鳴らし、腕を組んだ。


「精市が張り切りすぎてこの有様だ。責任を取れとは言わないが、やりすぎだ」


今は真田が幸村の犠牲になっているらしい。きっと、丸井や仁王も犠牲になったのだろうな。


随分と積極的で恥ずかしい行動をしたと思うが、ここまで迷惑をかけるとは。
黙らせるつもりが起爆剤にしてしまったな。


「名!帰ろう」
『柳、連れ帰って』
「下っ端は片付けとコート整備だ。戻るぞ精市」


汗だくで砂まみれの幸村が被服室にやってきたが、柳によってとんぼ返りしてもらった。


『待ってるから、早く片付けてきて』
「わかった。行こう蓮二」


あんなに疲れている柳の姿は初めて見たな。
嬉々として再び部活に戻っていく幸村はとても高校生に思えない。五歳児。