後ちょっとで読み終わる。どんな大円楽がこの先に待っているのだろう。
図書館で借りた文庫本をパラパラとめくっていく。左手の指にかかる残数にクライマックスへの高揚感と喪失感が頭を掠め、少しだけ物語から現実に戻って来た。

ホームルームが始まるより早く読み始めたのに、もう文字に落ちる光は茜色だ。

もう帰らなきゃと読み終えた本から栞を抜いて顔を上げた時だった。


『ちっ……か!』
「相当集中してたみたいだね。これじゃお財布を盗まれるよ」


鼻と鼻がぶつかりそうな距離に幸村の顔があって、しばらく近すぎて焦点の合わない目で見つめあっていた。
声を出して状況が飲み込めた途端に大袈裟に仰け反り幸村から距離を置いた。

頬杖をついて何食わぬ顔でわたしを見るので、わたしは顔が引きつった。この野郎は何がしたかったのだろう。

幸村の行動はたまにわからない。道徳的に現実的に行動しているかと思えば、好奇心に囚われてわたしにはさっぱり理解できない行動をとる。恐らく先ほどの行動は後者である。
こんな至近距離でわたしが幸村に気付けずおでこをぶつけていたらどうだっただろうか。幸村、石頭そうだし、石頭同士悶絶していたな。


『で、どうしてここに』
「窓が空いてたから誰か居るかなーって」
『そっか』


未だに落ち着かない心臓に、震えた指先で読み終えた本をカバンに入れようと動かせば、獲物を見つけた猫のように幸村の手がわたしの手首を掴んだ。
小さく悲鳴をあげ、身体を縮こませながら幸村を見る。
猫にいたぶられるネズミってこんな気持ちなんだ。命の危機こそないけれど、確実に狩られる。


「何読んでたの?」
『れ、恋愛小説』
「顔赤いけど、恥ずかしい内容なの?」


いえいえ、至って健全な恋して葛藤して付き合う極々よくあるありきたりな恋愛小説でした。時々、恥ずかしくなるような甘いセリフやむず痒いところはあったけど、情事を覗き見するような内容はなかったはず。

あと、自分では顔が青いつもりだったけど、幸村には赤く見えているのか。


幸村はわたしの手の下から本を抜き取って、片手でパラパラと本をめくる。恐らく柳のような速読術は持ってないだろうから流し見だと思う。

少し伏せた顔に髪の毛がかかって、長い睫毛も夕日を浴びて錦糸のように光っていた。丁寧に仕上げられた織物のような幸村に溜息をつきたいところだけど、ずっと幸村に手首を握られていて身動きができない。なんとかしてほしい。
身動ぎをすれば手に力がこもった。離すつもりはさらさらないらしい。

パタンと閉じた裏のあらすじを確認した。


「面白そうだな。俺も読もうかな」
『今から返しに行くつもりだけど……』
「うん。そのまま借りよう」


わたしの手首を握ったまま立ち上がり、そのまま教室の出口まで向かおうとするのだから、開いた手で机を持って踏ん張った。
軽く引き戻された幸村は怪訝な顔でわたしを見下ろした。なんでそんな顔されなきゃいけないの。


『まだ帰る準備してない』
「仕方ないな。早くね」


幸村はわたしの机に軽くもたれかかって文庫本を開いた。
待って待って。掴まれたままの手首を軽く引っ張るとまた怪訝な顔をされた。その手が使えなくて不便しているんです。
仕方がないと言わんばかりに解放された手首に幸村の手型が残っていて、そこそこ強い力で握られていたらしい。眉間にしわを寄せながら机の中の物をカバンに押し込んだ。


「終わった?」


わたしがカバンを持って立ち上がると、幸村も本から顔を上げて再びわたしの手首を掴んだ。

幸村の右手によって繋がれた右手。図書館へ向かい始めた彼の後ろを一歩後ろから追いかける。隣を歩くわけでもなく、手を引かれるまま幸村のペースで進むため攫われるような錯覚に陥る。

一言も交わさずたどり着いた図書館。迷うことなくカウンターに向かった。
閉館時間も近いということもあって、帰り支度していた図書委員は怪訝な顔をした。


「返却か?」
「いや、借りる」
『ごめん。わたしが借りてたのを幸村も読みたいって言うから』
「姓か。予約は……ないからそのまま手続きする。幸村、カード出して」


ぶっきらぼうに彼は黙々と返却と貸出の手続きを進める。生徒証のバーコードで管理できるから便利だ。
わたしは図書委員の手元を見ている中、幸村は図書館の北側に張られた大きな窓から夕日に照らされた校舎を見ていた。更々本に興味がないかのように、関心はそちらに向けられていた。


「じゃ、返却期限は一週間な」
「ありがとう」
「お前は借りてかねぇの?」
『今日は大丈夫。またね』
「おう」


カウンターの前に立っていたときは離れていた幸村の右手が歩き出すと同時にわたしの左手を掴んだ。


「これはね、牽制だよ」


図書館の扉を本を持った手で閉めながら幸村は言った。
幸村の言葉の真意がわからなくて首を傾げた。幸村が誰に何故牽制をかけたのだろう。


「知らなくていいよ。そのうち嫌と思うくらいになるから」


薄暗くなった廊下に灯る青白い蛍光灯。彼の向こうに見える鮮やかな赤紫と青の空。少し影のある笑顔。わたしは幸村精市に連れ去られる。この瞬間、背中が粟立つほど先の見えない恐怖に足がすくんだ。坂になっているとは気付かないくらい大きな大きなアリ地獄に知らぬまに迷い込んでいたらしい。


「姓、俺は結構執念深いんだ。だから」


わたしはもうアリジゴクに片足を掴まれていた。