雨だ。今年の夏は雨が少なかった気がする。ずっと家に引きこもって勉強していたから傘をさすことも、窓の外を見ることもなかったのだろう。
あっという間に夏が終わり、9月もあくびをするくらい気付かず過ぎていた。
「こんな時間まで勉強か。感心だな」
付けっ放しの電気に気付いて来たのか、昇降口の傘立てに置かず、濡れた傘を片腕にかけて、廊下から覗いていた。
『真田もこんな時間まで残ってるなんてね』
「俺は部活だ。……後輩が気になってな」
『いい加減後輩離れしなよ。また後輩になるんだよ?』
真田は唸った。逃した立海三連覇。栄光を取り戻すために熱くなる後輩の指導も楽しいのだろうけど、指揮者はもうすぐいなくなる。次の指揮者の育成のため、そう理由付けてでも構いたくて仕方がないのだろう。
板張りの教室は濡れると傷むためか入って来ず、下校時刻だと廊下から彼は急かした。
わかってるよ。わたしは机に広げていた参考書やノートを閉じて立ち上がった。
「傘は持っているのか」
『折りたたみ傘をいつも持ってるよ』
「用意周到だな」
真田は大きく頷いた。感心したらしい。
さっきから感心感心って、やっぱ真田は親戚のおじさんみたいなところがあるなぁ。
古い校舎に教室にかける鍵はなく、一日中締め切られたままの窓は鍵が上がったままだった。
真田はそれを確認すると、一つ頷いて教室の扉を閉めた。
真田はひどく真面目な人間だ。昨今のロボットより頭に柔軟性はない。付けっ放しの電気なんて当直の先生に任せてしまえばいいのに。きっと真田は見たもの触れたものしか信じないのだろう。きっと幽霊なんて信じていない。
『ん?あれ、傘忘れてきたかも』
念のためと廊下を進みながらカバンを漁ってみたものの、目的の水色の花柄の傘は見つからず、いつか荷物が多い日に抜いた、もしくは遊びに行った日に別のカバンに押し込んだままにしていたのだろう。
慢心していた自分に大きな溜息を吐いた。
「ならば傘に入っていけ」
『え、えー……真田の傘大きそうだけど、真田も大きいからはみ出ちゃうよ』
「しかし、ずぶ濡れよりかなりましだろうが」
真田の優しい言葉に悪態をついてしまったが、彼は全く気にする素振りはなく、薄暗い廊下を歩く。蛍光灯のついていない、窓から入る灰色の光が何か出そうな気がして隣に真田がいてよかった。
何か出そうだなで、ふと立海の七不思議を思い出した。こういう雨の日の廊下後に雨具を隠されてしまう話だ。どう考えも昇降口で傘が盗られてしまうだけの話に思うが、現にわたしの折りたたみ傘がないのでほんの少し笑えない。
真田にその話をすれば、教室に来るまでに後輩からそんな話を聞いたらしい。当たり前に馬鹿馬鹿しいと一刀両断したところが真田らしい。
『でもその話、ずぶ濡れになりながらバス停まで走ったらベンチに立てかけてあったり、職員室で傘を借りたら靴箱にあったり。随分悪戯っ子だよね』
「うむ。返すからいいという話でもない。見つけたら性根叩きなおしてやる」
『オカルトにも容赦ないなぁ』
鼻を鳴らした真田は当然だと頷いた。
濡れた床で靴下を汚さないように下足に履き替え、少し先で待つ真田と合流したのだけど、彼の頬か少し赤い。どうしたのと声をかければ、スカートが短いと奥歯を噛み締め顔を歪めてそう言った。
『スカート切ってないの知ってるでしょ、スケベ』
「なっ、な……!?」
やはり女子のスラックスは用意した方がいいなとぶつぶつ言いながら、真田は大きな黒のジャンプ傘を開いた。
『女子の脚を見て興奮する真田にこの距離は近すぎるんじゃない?』
「フンッ。貴様に傘を渡しても構わんが、明日俺が休めば気が気でないだろうな」
痛いところを突かれた。わたしも風邪をひきたくないし、真田にもひいて欲しくない。
出来るだけ体を小さくして、開かれた傘の下に潜った。渋々、真田の傘の中に出来るスペースを間借りするのだった。
真田は恐らくいつもより歩幅を小さくして歩いている。きっと一人ならとっくに校門を出ている。
傘の中は無言だった。聞こえるのは雨音と傘に水が跳ねる音と水溜りを蹴る音だけだった。きっと傘から飛び出したテニスバッグは濡れているだろう。
「寒くはないか?」
『少し肌寒いね。秋だ』
「そういうことではないが……まぁいい。帰ったらすぐに風呂でも入って着替えるんだな」
『真田もね』
水溜りを避けたくて真田に肩でぶつかれば、傘から大きな水滴を落として迂回する。
真田は構わず水溜りをに足を突っ込んで進むんだ。気持ち悪くないのかな。次に前方に見えた水溜りを避けるために真田の袖を引っ張れば、操り人形のように動くから本当に可愛い。
わたしの笑い声に真田は口をへの字に曲げる。はー、おかしい。
『送ってくれてありがとう』
「構わん。あの時の傘、見つかるといいな」
『うん。贈ったこと覚えてるんだ』
「無論だ」
『尚更真田の前で失くしたくなかったな』
真っ黒なコウモリ傘の下の真田は何も言わなかった。
わたしと真田が名前で呼び合っていた頃、誕生日にもらった傘。真田だから、わたしの好みがわかっていた。
大事に大事にしていたのに。まだ失くしたとは限らないけれど、すごく悲しい。
「見つからなければまた贈ろう。代用品は気に食わんだろうが、お前なら大切にしてくれると俺は知っている」
『うん。ありがとう。……風邪ひかないようにね』
びしょ濡れになった真田の肩と足元。すごく冷たそうだ。たわけと呟いて真田は帰宅するためにくるりと踵を返した。
『あ、待って!』
「なんだ」
それとラケットバッグのサイドポケットを指さす。小物を入れる小さなポケットから折り畳み傘の柄が飛び出していた。
それを取り出せば案の定わたしの探していた傘だった。
「不思議なこともあるもんだ」
『ちょっと気味が悪いね』
わたしの手のひらに戻った傘は何も変わらず、仕事もせずに能天気に微笑んでいる。
弦一郎がいなかったらわたしはびしょ濡れだったんだぞ。
「じゃあ、またな」
『うん。またね』
真田の背中に手を振り、濡れた肩が風邪をひきませんように。そう見送り、風呂へ駆け込んだ。