「なんや、姓ちゃん。最初とはえらい違いやな」


壁際に辿り着き、そこにいた忍足がニヤリと笑った。
小一時間前は緊張して忍足の姿など見ているようで見ていなかったが、正装して髪も撫で付けていた。
いつもの気怠げで猫背気味の背中はそのままで、アンバランスさに今更ながら笑ってしまった。


『楽しかったから、指輪を投げなくてよかったよ』
「さよか。まぁ、投げたところでまたお嬢さんの……」
「オイ、姓戻るぞ」
『うん。また、高校で』
「おん。またな」


忍足が何か言いかけた途中で跡部に遮られたが、多分、これから跡部が話すことなのだろう。
跡部に手を引かれるまま、ホールを後にした。


『跡部、聞いていい?』


再び控え室に戻り、二人でソファに腰掛ける。


跡部はどこから話そうか考えるように目を伏せ、わたしは彼の唇が開かれるのを静かに待った。

どこか関係が変わる。そんな言葉を期待している自分がいた。


「指輪。返してもらっていいか」


そんな期待を裏切るような言葉に、胸に亀裂が入るのがよくわかった。

ああ、押しに弱く、愚直で操りやすいことを跡部は見抜いていたのか。
ほかの女子みたいに浮かれて自慢なんてしないし、嫉妬こそされたけれどみんなそのひと時だけだと割り切っていた。

それに、こんな高価な素材に名前なんて刻まれたら断れないよ。


今回は夜だというのにするりと抜けた指輪。授与式では泣かなかったのに。今はなんでこんなにも泣きたくなるんだ。
わたしの体温が残るそれは跡部の手のひらに返った。


たった一度だけの特別を、何の変哲も無いわたしに頂けただけで贅沢だったのだ。


わたしは跡部に涙を見せる前にソファから立ち上がった。


「待て。話は始まってねぇ」


掴まれた左腕は跡部の手により引き寄せられ、ソファに膝をついて倒れ込んだ。
ダンスのときに散々彼の顔を見てきたはずなのに、至近距離で見られることが急に嫌になった。
泣きそうな顔をしているからかもしれない。だけど、もう、見たくもなかった。


「察しのいいお前ならこれで十分だろう」


掴まれた左手に捻じ込まれた指輪。それも薬指に。
解放された手首に跡部の手形の残る左手を見つめる。
察しがいいと跡部に言われた直後だが、首を傾げてしまい、彼は声を上げて笑い出した。


あれ、でも、そういうことなのか?


『跡部』
「なんだ」
『わたしは態度じゃなくて、言葉も欲しいです』
「まず俺様の指輪も変えてからだ、名」


お互いの左手の薬指に収まったプラチナの指輪。まだ子供のわたし達でもこの意味は知っている。
跡部がいつわたしを好きになったのか、わたしがいつ跡部を好きになったかなんてわからない。


「思い出づくりに名を選んだわけじゃねぇ。元より、お前以外考えられなかった」
『もう少し素直に伝えて欲しいです』
「仕方ねぇ。……好きだ」