朝、元々2人でいたのに体格のいい大人たちが騒いで空になった部屋はなんだか広く感じた。
皆さんキッチリしているのでゴミも汚れもないから余計に寂しく感じた。

いつもなら起きてくる精市さんも騒ぎ疲れたのか、まだ部屋から出てきた様子がない。
こっそり鍵のかかっていない精市さんの部屋を覗く。リビングと違って酷く床もデスクも壁も散らかっていて、掃除機なんて滅多にかけられず、ルンバさえもUターンしてしまう。
その一角のクイーンサイズのベッドで丸くなって精市さんは眠っているようだった。

そっと扉を閉めて、わたしも大学まで時間があるしちょっと気合を入れて朝ごはんとお弁当作っちゃおうかな。


精市さんの部屋のキッチンはわたしの住んでいた部屋と比べて随分広い。多分、わたしの実家よりも。
それに対して不釣り合いな一人暮らし用の小さなネイビーの冷蔵庫。テフロンが剥がれるほど使われていないフライパン。同じく傷のないまな板。ちょっと掃除されてないコンロとシンク。
それらを当たり前に使って料理をしているし、だんだんわたしの使いやすいように配置も変わっている。


「名。おはよう」
『おはようございます。精市さん』


寝癖でふわふわの髪があちらこちらに跳ね飛んで、大きなあくびをしてキッチンにやってきた。
二日酔いの様子もなく、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し喉に流していた。


『もうすぐ朝ごはんができるので、ご飯よそってください。……精市さん?』


冷蔵庫にもたれかかったまま、わたしのことを精市さんはジッと見ていた。
少し難しそうな顔をして、ほうれん草と豆腐とお揚げの味噌汁が気に入らないのだろうか。それとも卵焼きよりオムレツが良かったのだろうか。

余所見をしては料理はできない。精市さんを不審に思いながら、視線をほうれん草のおひたしに戻した。


視界の片隅でミネラルウォーターを冷蔵庫の上に置いたのが見えた。そのままふらりと、ご飯もよそわずにリビングに戻るのかと思えば、急に抱きしめられた。
頬を頭にすり寄せ、鼻先でわたしの耳を探り当てて、彼はこう言った。


「お嫁さんになって」
『寝ぼけてるんですか?』


耳を疑った。思わず失礼な返答をしてしまったが、精市さんはほんの少しだけ腕に力を入れて、より身体を密着させた。


「そうだったらいいのに。彼女にはしたくないのに」
『話は後で聞くので、ご飯よそって待っててください』
「はぁい」


素直に身体を離した精市さんは炊きたてご飯の湯気を顔に浴びていた。熱そう。


それにしても、お嫁さん、お嫁さんさんかぁ。自分からは最も遠い言葉だ。母がお嫁さんだった頃の写真も見たことがない。
恋人の期間をすっ飛ばしてプロポーズされることもあるんだなぁ。
精市さんの一言が全て他人事だった。


「どこから話そうかな」
『きっかけは後々でいいので、恋愛結婚じゃなくていいんですか?』


食卓に並んだ温かいご飯と味噌汁と卵焼き。そのほかお弁当のあまり。精市さんは納豆も食べたいというから向こう側は一品多い。


「四六時中恋人と一緒に居たいから結婚するとは限らないと思うよ。俺は名との距離感が好き」
『他人だから遠慮があるんですよ』
「もうキッチンは自分の部屋のようなのに?」


う。精市さんがキッチンに立つことはそうないはずなのに気付かれていたのか。お互いの部屋に入らないだけで、それ以外は共用なんだからいてもおかしくないんだけど。


「少しずつお前がいるんだよ。それがなんだか愛おしく思えてね」
『はぁ』
「あと、毎日飲みたいんだ。名のお味噌汁」


精市さんがご飯に手をつけてからしばらく沈黙が続いた。しまった。テレビくらいつけておけばよかった。


「不自由はさせないつもり。名を養えるくらいは稼いでるし、家もある」


何を迷うことがあるんだいと言わんばかりに精市さんはまっすぐわたしを見据えていた。

迷うこと。というより、わたしはまだ子供みたいなものなのだ。だけど分別ぐらいはできる。だからこそ、今出された条件を飲むか悩むのだ。
今時結婚は一生に一度の代物ではない。けれど、生活を変えてしまうほど大きな出来事なのだ。


「大学卒業まで待とうか。名の側に俺がいることが当たり前になるには十分だ」
『精市さんがわたしのお味噌汁が嫌いになるように、毎日失敗しますね』
「毎日作ってくれるんだ。嬉しいなぁ」


瞬間、多分この人と幸せな物語のような夫婦になるんだろうと思った。当たり前に喧嘩して、愚痴って、泣いて、くだらないことで笑いあって、何を言わずともわかることが増えるのだろう。
精市さんがどんな未来を描いているかわからないけれど、細められた目には多分幸せな色が映っているに違いない。