「ちょっといい?姓」
『え?あぁ、幸村くん。どうしたの?』


卒業式が終わり、最後のホームルームも終わり、それぞれが先生との別れを惜しんだり、部活の送別会に参加するために慣れ親しんだ教室を後にしていた。
その中で隣の席の幸村くんが、握りこぶしをわたしに向けていた。めでたい日に殴られちゃう?と、冗談を言えば、手を出してとスルーされた。

手のひらに立海のエンブレムが刻まれた金ボタン。ブレザーに縫い付けられているものだ。
よく見れば幸村くんの第二ボタンが空いていて、不恰好にほつれた糸が飛び出していた。


「そのボタン、持っててくれない?」
『いいけど……どうして?』
「第二がなければ本命がいるって思われるでしょ」
『モテる男は大変だね……。でもブレザーは第一ボタンだよ?』
「……」


制服の心臓に近いボタンに意味がある。学ランは第二で、ブレザーは第一。
男の子の幸村くんはそのことを知らなかったらしく、無言で第一ボタンも引きちぎり、わたしの手の中に転がした。

わたしは二つのボタンを大切にハンカチに包んでポケットに戻した。

モテる男の気持ちはわからないけどそんなに嫌なのかぁ。
ボタンをわたしに預けたってことは、きっと意中の人はいないんだろうな。だけど、その他の女の子には渡したくなくて、小細工をするくらい期待もさせたくないんだなぁ。


「他には」
『ごめん、あんまり詳しくない。でも、幸村くんのものなら多分みんな何でもいいから、ポケットのハンカチとかリストバンドとか気をつけてね』
「はぁ、もうどさくさに紛れたスリだよ」


深いため息を吐きながら幸村くんはポケットのハンカチやティッシュをカバンにしまいこんだ。


「姓はもう帰る?」
『先生に挨拶に行って、部活に顔出すつもり。幸村くんも?』
「俺もそうしたいんだけど、部活に顔出すだけで手が一杯かな」


チラリと幸村くんが視線を向けた先には何人もの女の子が廊下から顔を覗かせていて、幸村くんの行く手を阻む向かい風に見えた。
曖昧な笑みを浮かべて幸村くんはカバンを持って立ち上がった。


「あ。そうだ。大きな傷が入ってるのが第二ボタンだから」
『わかった。いつ返せばいいかな?』
「じゃ、またね」


幸村くんはいつも通り、今日が卒業式だったことを忘れているかのように別れの挨拶をして向かい風の中に飛び込んで行った。
台風一過というか、段々遠くなっていく声に、気付けば辺りの人はまばらになっていた。

わたしも荷物をまとめて立ち上がる。先生に卒業アルバムに寄せ書きをしてもらおう。


あれ?ボタンはいつ返せばいいんだろう。
ポケットの上からボタンを撫でた。確かに二つある。無期限に預かるのは責任重大だなぁ。


ほんのちょっとの短い春休みが過ぎて、新生活が始まった。
色気はないけど、チャック袋に幸村くんのボタン二つをポケットに入れて、彼の姿を探した。
まぁ、目立つからすぐに見つかるのだけど、女の子や先輩に囲まれて近づけないこと。ためらっていても幸村くんは気付くことはない。今日は諦めよう。

それ以降も何度も幸村くんチャレンジをした。中々声をかけられないし、今だというときはわたしが肝心のボタンを持っていない。運が悪いのだ。


「おや、姓さん。ウロウロしてどうしたんですか?」
『うわっ!柳生くん!ごめん、びっくりしちゃって』
「いえ、こちらこそ不用意でした。ところで、誰かにご用ですか?」
『幸村くんにこれを』


わたしはポケットの中のボタンを手のひらに転がした。
柳生くんは眼鏡を押し上げ、腕を組んだ。事情の知らない柳生くんからすれば幸村くんのものとわかる上に中学のボタンを持ってるんだから不気味で仕方ないだろう。


「それは返すべきなんでしょうか」


眉をひそめた柳生くん。返すべきじゃないの?預かったんだから。


「柳生に姓、廊下で立ち話なんて珍しいね」
「ああ、幸村くん。姓さんが貴方にご用意があるそうなので私はこれで」


そう言って柳生くんはどこかへ歩いて行ってしまった。幸村くんはその背中を見送らずわたしに視線を向けていた。


「で、俺がどうかした?」
『これを返そうと思って』


わたしは手のひらのボタンを幸村くんに見せた。
彼は目をまくるした後、困ったように眉をハの字に曲げた。幸村くんは手の中のボタンを受け取ることなく、わたしの手を包んでもう一度握らせた。


「ずっと持ってて」
『え、でも。こういうの本命が持っていた方がいいんじゃないの?』
「ふふ、もう持ってるからいいんだよ」
『え?』


幸村くんはわたしの手から離れると颯爽の教室の中へ駆け込んでいった。もう一度声をかけるべく一歩を踏み出そうとした瞬間、無情にも始業のベルが鳴り、わたしは幸村くんが駆けていった方向とは逆の方向へ進まざるを得なくなった。


「姓遅れて入ってくるとは……顔が赤いが体調が悪いのか?」
『あっ……ちょっと熱っぽいです』
「そうか、なら保健室で休んでおくか?」


真っ赤な顔のまま教室に入れば、出欠をつけていた先生が怒り出しそうな気持ちを抑えて心配してくれた。
わたしはどうにもこうにも授業が受けれそうになくて、サボることにした。


幸村くん、わたしが本命だったってことでいいんでしょうか。
ベッドに転がっても幸村くんのことで頭がいっぱいで幸せな夢が見られそうなのに、目が冴えて身悶えすることしか出来なかった。