『真田部長、私事なんですがご相談いいですか?』
「む、なんだ言ってみろ」
『あの、社長に口説かれてるのですがどうしたらいいでしょう』


プロジェクトの企画立ち上げのために遅くまで残っていた。同じく残業していた真田部長にコーヒーを淹れながら、休憩ついでに相談してみた。
幸村社長と真田部長は旧友らしく、業務時間外になると肩の力を抜いて話しているのをよく見かける。

真田部長は珍しくぽかんと間抜けな顔をしている。


「幸村からは生涯を添い遂げたい奴ができたとは聞いていたが、姓のことだったのか」
『おそらく』


真田部長はいつもよりも険しい顔をして、ワイシャツ越しからもわかる逞しい腕を組んだ。


うちの幸村社長は若くしてテニス用品のセレクトショップを立ち上げたすごい人なんだと思う。
顔も人当たりも良く、昔はかなり注目されたこともあってか、メディアに取り上げられて瞬く間に成長していった。

そんな中に何にも知らないわたしがぽんと入社して、働いているわけなんだけど、働き始めて数年経った、ここ数ヶ月の話である。


「姓さん、そろそろ君を口説こうと思うんだけど、いいかな?」


小さな会社だ。社長と特別距離があるわけではない。彼は退勤前のわたしにそう言ったのである。
よく聞き取れなかったふりをして曖昧な笑顔を浮かべたのだけど、社長は深い笑みを浮かべた。


「今度食事に行かないかい?二人で」
『あー、えー、是非』
「パワハラのつもりもない。上司部下を取り払ったデートだ」
『か、考えさせてください』
「うん。いい返事を期待してるよ」


そう言って、かっちりとスーツを着こなした幸村社長は社長室へ消えていった。


「相変わらず強引な奴だな。まぁ、姓次第だと思うが」
『そうですよね……』
「友としては幸村にいい加減落ち着いてもらいたい気もするから何とも言えん」


真田部長は大きく息を吐いて、机に転がった企画書に目を通した。
そうだ。まだ仕事の途中なんだった。
わたしも仕事に戻るべくデスクへ向かう背中に部長が声をかけた。
何か誤字や脱字や的外れな企画書だっただろうか。真田部長の声は背筋が伸びる。しゃんと背中を伸ばして振り返った。


「デートぐらいと言うのは失礼だと思うが、一度だけ関係を取り払って会ってやってくれ」


真田部長が頭を下げた。しばらく状況が飲めないままにいたけど、上司が部下に謝罪や無理な労働を与えるわけでもないのに頭を下げているのはシュールだ。
頭を上げてもらい、わたしはすぐに幸村社長と連絡をとった。


ノー残業デーだとか言って、全社員を定時で叩き出した社長。そういう日は何度かあったけど、今日は一段と横暴さがあった。
化粧を直していざ行こうとカバンをデスクに取りに行ったら、幸村社長がデスクにもたれかかっていてひっくり返るほど驚いた。


「あはは!そんなに驚かなくてもいいじゃないか」


差し伸べられた手を取り立ち上がる。するといつもよりも社長が近くにいて、また心臓が跳ねて退いて転びそうになる。
そうなればまた転ばないように社長が手を引くからより一層近づいて、嫌なくらいに汗が出る。

一方、幸村社長はどこか楽しそうにしていて、この人の根っこにまだ意地悪な少年が潜んでいるそんな気がした。


「真田に相談したんだろ。なんだか癪だな」
『すみません……。友達に相談するのもなんだか違うと思って』
「いや、いいんだ。君が俺のことを少し考えてくれるだけで嬉しいよ。それで、何か食べたいものがあるかい?」
『えーっと、幸村さんがふとした時に食べたくなるものがいいです』


社長は高らかに笑い、わたしの肩を抱いて歩き出した。


『セクハラですよ!』
「ごめん、ごめん。浮かれてるんだ」


肩から降りていった手は身体の側面に帰り、わたしの半歩先を幸村社長は歩き始めた。
よく仕事で追いかける背中だけれど、今日はなんだか違って見えた。外回りで同じ背中を見ているはずなのに。


他愛のない会話をしながらたどり着いたお店は、どことなくボロくて町の人に愛されて続いている中華料理屋だった。


「いらっしゃい!お、幸村か。久しぶりだな」
「久しぶり。ジャッカルの作る酢豚が食べたくて来ちゃった」
「へへっ、ありがとよ」


どうやら幸村社長の知り合いの店らしい。
日本人でも中国人でもない見た目の店主の中華料理店。なんだか不思議な感じがする。
でも、なんというか、幸村社長がこういう大衆料理を食べたくなるってことがすごく身近な人に感じられた。どちらかといえば、テラスのあるレストランやカフェの方がよっぽど似合うんだから。


「幸村が女の子を連れてくるなんて珍しいな。彼女?」
「そうだよ」
『まだ違います!』
「まだ?ちょっとは考えてくれてるんだ」
『一応。そういうお話なので……』


店主さんは小首を傾げて、いい感じに振り回されてるなと笑った。


『幸村さん、わたしでいいんですか。生涯を共にしたい人』


料理を待つ間、わたしが疑問に思っていたことを投げかけた。
すると幸村さんは声を上げて笑い、店主やほかのお客さんがちらりとこちらを見た。


「その言い方真田だね?そうだよ、君だ。根拠も確証もない、勘だ。でも、君を不幸にさせる自信がある」
『そこは幸福じゃないんですか?』
「ああ。姓さんがお金だけがあれば幸せになるような人間じゃないと思ってるからね」


仕事に向き合う時の真っ直ぐな瞳がわたしを貫き心臓が震えた。
今ここで社長と親密になればきっと良く思わない同僚が出てくるだろう。わたしはこの仕事が好きなのに、人間関係で身を引くことになる。
どの道社長の気持ちを知った今、遅かれ早かれここから離れることになると思う。社長のことだからここまで考えた上で行動に出たのだと思う。

考えれば考えるほど社長がよくわからなくなる。世間体を無視した社長のようにわたしも行動した方がいいのだろうか。


「姓さん、俺のこと好きだろ」
『え。そりゃ……』
「違う。惚れたことあるだろ」


料理が来たことによって中断された会話。

なんで社長に惚れたことがあるとわかったのだろう。
恥ずかしくも面接で彼を見たときに彼氏が居ながらもときめいたことがあった。
学生みたいに幸村社長を見ることが嬉しくて毎日会社に行っていた。お金も持って見栄えだけでも綺麗になった。
無意味だとわかりながらも行動していて、無意識に彼氏とも別れた。


「運命ってやつを信じてみないかい?」
『え、遠慮します』
「んー、残念だ。まだまだ姓さんを落とすには時間がかかりそうだ」


お酒を飲んでいないのにフラフラと自宅まで帰った。
別れ際の幸村社長の顔が焼き付いて離れない。あの人はなんて嬉しそうな顔をするんだ。

好きにならない理由がないじゃない。悪態をついて、次のデートの約束をカレンダーに書き込むのだった。