「名」
『ワギャーーーー!?』
「部屋にいるからって戸締りはちゃんとしないとダメだろう」


わたしが不用心だとしても、勝手に入ってくる精市の方が問題があるのでは!?
音もなくベランダを伝って部屋に来るんだから、いつか落ちておばさんに怒られるといいよ。


「名!ご近所迷惑でしょ!」
『ごめーん!ほら怒られた』


精市は悪びれることもなく、わたしのベッドに腰掛けてニコニコと笑っている。
時計を見ると0時を回っていた。こんな時間に何の用よ。

わたしだって受験勉強の途中だから、あんまり精市に時間を作れないんだから。


「相当集中してるみたいだね。もうちょっと前からいたんだけど、暇だから声かけちゃった」


本当に一ミリも悪いと思ってないよ、この人……。


精市に声をかけられて、彼が部屋にいる中で集中して勉強ができそうにない。
机の電気を消して、彼の隣に腰を下ろした。

お疲れ様と、誰よりもわたしが頑張っている姿を見ていると言わんばかりの優しい声で頭を撫でてくれた。


来週に迫った入学試験。ここが勝負どころなのだ。


「立海に来るんだろ。名なら大丈夫さ」
『大丈夫じゃなかったら本当に報われないよ』
「一度きりの勝負は心が大事だよ。想いが強い方が勝つ」


そう言った精市はわたしを自身の胸の中に押し付けた。
わたしの身体が冷え切っているわけではないのに、精市の手のひらや胸がすごく温かくて安心する。
匂いも、石鹸のにおいがしてすごく落ち着く。
鼓動と同じ速度で、優しく撫でられてうとうとしてきた。


受験勉強のために自由登校になってる今、目が覚めてから、食事以外は勉強に充てている。
ほとほと疲れてきてるのだろう。立ちっぱなしみたいに足も浮腫んでいる。
夕方から塾に行って勉強して、帰ってきて勉強して。

知らないうちに心が疲れてしまって、身体もついていけずにボロボロになってるのだろう。
ちょっとくらい休んでも……。


『って、寝ちゃダメ!』
「夜中まで頑張ってるから寝かせてあげようと思ったのに」
『それは前日でいいよ』
「いや、良いパフォーマンスには休息が必要だ」


精市を押し返して机に戻ろうとしたら、腰を掴まれてまたベッドに戻されてしまった。

いいものがあるんだ。精市はそう言ってわたしの布団の中から、本当に気付かないうちに部屋に侵入してたんだ……じゃなくて、赤い箱を取り出した。
リボンもかけてあり、やたらと特別感のある箱だ。


「今年は逆チョコにしてみたんだ。悪くないだろ?」
『あ、ああ、そうか今日はバレンタインか』
「学校も行かずに勉強してるんだから忘れちゃうよね。美味しそうなの選んできたよ」


精市はするりとリボンを外して、箱を開けてくれた。
一口サイズのチョコレートがお行儀よく収まり、赤いハートや金色の印刷が入ったもの、飴玉のようにまん丸ものも色々入っていた。

箱から思っていたけど、いつも買えるようなお店ではなくて、バレンタインのために海外のショコラティエを呼んだ百貨店の催事で買える高い物だ。

今日のために精市が選んできたと思うと、嬉しいと思うところもあれば、大勢の女性に囲まれながら吟味して買っていったであろう姿に可笑しくてたまらない。
精市は顔がいいから、店員さんにたくさん話しかけられただろう。その度に笑って対応していたのが目に浮かぶ。


「はい、あーん」
『え、ええ。自分で食べるよ』


赤いハートのチョコレートをつまみ上げ、わたしの口が開くのをずっと待っている。
持っているところが若干溶けてきて……!


「口を開けて。鼻、摘んじゃうよ」
『ちょっ、んむ』


さすがテニスで鍛えた反射神経。少し開いたところに押し込んできた。


「ん、甘いね」


溶けて指についたチョコレートを舐めとる仕草が、こう、大人っぽくて、エロくて今度は開いた口が塞がらない。
精市、いつの間に煽情的な仕草ができるようになったんだろ。元々の素質かな。


「なぁに、俺が溶かしてあげないと食べられない?」


バチリと目が合い、三日月のように目を細くして笑った。
その笑顔に背中に粟立つものを感じて、体温で溶けきったチョコレートを飲み込んだ。


『めちゃくちゃ美味しい』


チョコレートに柔らかいって表現が合ってるのかな?口の中で転がさなくても溶けていくし、砂糖の甘さよりミルクの甘さって感じですごい幸せ。
ほっぺが落ちるってこのことか。

さすが精市のセンス。最高。


口元を押さえてやけに真剣な眼差しの精市がわたしを見ていた。穴が開くくらいガン見。


『ど、どうかした?』
「ん?ああ、エッチな顔してたと思って」
『えっ!?はっ??』
「名が立海に来るまで何もしないよ。じゃあ、勉強頑張ってね」


わたしが精市に何も言えないまま、彼は頭を撫でてベランダから出て行ってしまった。

精市がだいぶ血迷った発言をしていた気がする。
このチョコレートを食べるたびに精市のあの顔を思い出すのだろうか。それにあの発言……。


『今は勉強!頑張ろ』


精市に応援されてるんだ。頑張らなくては。