「姓、いいか」
『待ってここ学校』
「物音を立ててもここに誰かいてもおかしくない」


わたしが柳くんから距離を取るより早く、細く長い腕が背中に回った。
身動きが取れなくなるまで一瞬だった。


「もう慣れたことだろう」


ひとつふたつとブラウスのボタンを片手で外し、首筋にかかる髪を片手でかきあげる。

何度となく繰り返されたこの仕草。
柳くんは随分と慣れた手つきだというのに、背中をざわざわと駆け抜ける感触と腰は逃げたがっているのに膝から下は動けない。
それを悟ったのか、柳くんはわたしを抱え、机の上に下ろした。


柳くんはわたしの首筋に顔を埋め、湿って体温より少し冷たい唇が触れる感触が脳を舐めるように身体に響いた。


『〜〜〜っ!』
「力むな。痛むぞ」


痛いことが分かっているなら力むのも無理もない話だ。せめてもの抵抗に、柳くんの腕を握りしめた。

柳くんは痛がる素振りもなく、力を抜いて笑った吐息が首筋を撫でた。


鋭い痛みの後に来る、頭が麻痺してまぶたがどうにも重くて涙が浮かぶこの感覚が苦手だ。
こうなれば柳くんに預けるしかない。

ゆっくり深い眠りにも似た呼吸を繰り返し、時が過ぎるのを待つばかりだ。


「終わった」


柳くんは脱力したわたしを背もたれのある椅子に座りなおさせ、ブラウスのボタンを留め直した。


「眠ってもいい。時間になったら起こそう」
『ん、大丈夫』
「待ってろ。飲み物を買ってくる」


そう言って柳くんは部屋から出て行った。


柳くんが吸血鬼と知ったのは半年ほど前の話だ。
面識はあまりなかった柳くんに生徒会の資料整理の手伝いを頼まれた時のこと。


「姓、俺は吸血鬼だ」
『はぁ?』


突拍子もなく口を開いた柳くんに思わずアンケート資料をまとめる手を止めて顔を上げてしまった。
涼しい顔をして、一足先に資料整理の終わった柳くんがじっとわたしの顔を見ていた。


「お前は健康で貧血の兆しもなく、身長と体重から血液量も多少抜いても問題ない。そうだろう」
『確かに貧血はしないけど、何、献血でもしろって言うの?』
「そんなところだ。だが、誰かにではなく俺に、だ」


両肩を掴まれ、鼻と鼻がぶつかるぐらい柳くんは顔を寄せた。

吸血鬼には逆らわない方がいい。並の人間は力で負けてしまうから。
素直に血を求められれば食い殺されずに済む。特に餓えた相手には。
総人口の1%に満たない人種との暗黙の了解だ。


『……わかった』
「助かる」


耳元で生唾を飲む音が聞こえた。


「ココアでよかったか」
『ありがとう』


封の開いた缶のココアを口にする。
柳くんは食事を終えた礼にジュースを一本買ってくれる。今のわたしにそれなりに最適なものを選んでくれる。


『初めて柳くんのごはんになったこと思い出しててさ、まだ慣れないね、これ』
「俺の事情に巻き込んで申し訳ない。姓にはとても感謝している。お前がいなければ行き倒れていてもおかしくなかった」


深々と頭を下げられ、気の利いた言葉を探しても見つからない。
誰かに見られたらと思うと大丈夫じゃないし、平気な量とはいえ血を抜いてるから身体は無事ではない。

この関係がどれくらい続くかわからないから少し不安がある。


『他の人じゃダメなの?』
「駄目ではないが、姓がいい」


意図も簡単に胸が高鳴ることがあるだろうか。絵に描いたようなキュンにびっくりした。


「どうでもいい奴の血は不要だ。しかし大切にしたい人を傷付けてしまうジレンマがある」


柳くんはついさっき口を寄せていた首筋を指先で撫でた。
慈しむように、皮膚が裂ける痛みを想像したように、浅く眉間にしわを寄せ切なげに笑った。


「お前は俺の特別だ。食料とは思っていない」
『わたしも柳くんのご飯は嫌だなぁ』


本心を伝えると柳くんは嬉しそうに目を細めた。


『そういえば、柳くんが吸血鬼って他に知ってるの?』
「精市や弦一郎、他に親しい奴らには伝えている。不便が出るからな」


そっか、わたしだけじゃないのか。
柳くんと秘密が一つあると良かったのに。

わたしの顔に書いてあったのか、何かに気付き柳くんの口元が少し緩んだ。


「二人だけの秘密はこれからいくらでも出てくるだろう」
『そう。そうだといいな』
「手始めに恋人同士は隠しておくか?」
『えっ!あー……あは、お願いシマス』


俯くわたしの頭を柳くんは軽く撫でた。

意識しすぎて柳くんを飢え死にさせるかも。