「やぁ」
『こ、こんにちは。じゃ、じゃあね』
「うん。またね」


し、心臓が止まるかと思った。
トイレから出てきて油断してるときに幸村くんが声をかけるんだもん。びっくりする。
いや、ぶつかりそうだったから声をかけてくれたのかもしれないけど……。

ちらりと通り過ぎていった幸村くんを見る。すると彼も振り向いて手を振った。


「おはよう、姓。早いんだね」
『お、おはよう。朝練?』
「うん」
『頑張ってるね。お疲れ様。わたし、こっちだから』
「うん。またね」


兼ねてより幸村くんと目が合ったり、ぶつかりそうになったり、鉢合わせることがよくある。
一度や二度ならまだしも、毎日になる。クラスメイトでも友達でもない彼と会うなんて、立海の規模ではほぼ無理だと思う。


「あ、幸村くんがこっち見てる。部活中によそ見なんて珍しいね」
『……う。そうかも』


勘違いをしたくないし、勘違いと友達に思われたくないので、一切相談していない。
偶然なのか、必然なのか、ほかの女子にもこんな感じなのか。貴公子の二つ名を貰った幸村くんの微笑みからはさっぱり見当もつかない。


「ん?姓も花壇に来ることがあるんだね」
『近道だからたまに使うよ』
「校舎の中を通っても体育館まで変わらないと思うけど」
『昼休みの廊下は人がたくさんいるから』
「なるほど。人の少ないここが歩きやすいんだ」
『うん。じゃあね』
「うん。またね」


でも、幸村くんと遭遇もそろそろ偶然では済まなくなってきた。


放課後、先生に頼まれて授業で使った大量の試験管の洗浄をしていた。
その時々で洗えばいいものを軽くすすいでこんなに溜め込んで。呆れながらも黙々と作業をしていた。

何故こんなことをしているかって、レポートの提出を忘れてしまったからだ。
このくらいでレポートを見逃してくれるなら、レポートにかける時間より安いものだ。


「あ、ここにいたんだ」


急に声をかけられて手に持っていた試験管を落としそうになった。
化学室の入り口ににこにこ笑った幸村くんが中に入ってきた。


「ちょっとなんで身構えてるの」
『え?うーん、そう?』
「そうだよ。変だね、姓は」


知らず知らずのうちにかなり警戒していたようだ。
何かわたしに用事がある様子でもないのに、探し出したような口振りが妙に引っかかる。


幸村くんはわたしの隣に立って試験管を手にした。


「俺も手伝うよ」
『いいよ。先生に頼まれたことだし』
「失くしてレポートが出せなかったもんね」


なんで幸村くんがそのことを知ってるんだ?幸村くんは違うクラスだから、未提出のことは知らない。
それにレポートを失くしたことを誰にも話していない。


手が止まっていることに気付いた幸村くんが優しく声をかけてくれた。

先生が幸村くんのクラスには、忘れた場合の罰を伝えていたのかもしれない。
変に同級生を疑うのはやめよう。


黙々と洗浄作業を続ける。同じく幸村くんも隣で作業をしている。
蛇口に繋がれた短いホースから水が流れる音と、ガラスがぶつかる高い音が空間を支配している。
その静かな空間に幸村くんは口を開いた。


「俺と会うの、たまたまだと思ってる?」
『その言い方、意図的なんだね』
「姓は賢いな。そうだよ」


幸村くんは最後の試験管を立て掛けた。


「この作業も、俺が仕向けた。忘れた人に代わりにさせたらどうですか?って。失くしたはずのレポートもここにあるよ」


一刻も早くこの場から立ち去りたい。
耳の近くで心臓の音がする。


「こうでもすれば姓は俺に注目してくれると思ったけど、そうじゃないみたいだね。他の子はすぐに告白してくれるのに」


笑顔のまま幸村くんはわたしの頬に手を添えた。
濡れて冷えた手のせいか鳥肌が立つ。


「君を俺だけのものにしたいよ。どこにいたって見つけてあげる」
『嫌!』


幸村くんの手を払って距離をとった。袋の鼠だとわかっている。幸村くんの方が入り口に近い。
それでも幸村くんは笑っていた。


「それでいいんだよ。姓。もっと遊ぼうか」
『嫌だ。近寄らないで』
「嫌われてる?だめ、好きになって」


これでもかと優しい手つきで抱き寄せられ、全身がぞわぞわと虫が這うような不快感に襲われる。
この人の花と葉の青さのある匂いのせいだ。


離してほしい。離せ。お願いだから。
涙がこみ上げてくる。彼の前で泣いてはいけない気がした。

優しい手が形を確かめるように頭を撫でる。


「俺の大切で特別な存在にしてあげる、名」


とても彼と過ごす時間が楽しいものになるとは到底思えない。
そんな日々が続いていくような気がしてわたしは考えることをやめた。