『あ、雨』


一人部室に残ってクッキーを焼いていた。こんなに広くて、夕食の準備の邪魔をせずにお菓子作りができるのは学校ぐらいだ。
部活だと言えば機材も器具も目を瞑ってくれる。

すべてのクッキーをオーブンから出した時にようやく雨に気付いた。
幸いにも折り畳み傘はあるし、雨足もそれほど強くない。
随分前に降り出したのか、運動部の気配もとっくになくなっている。


これ以上降る前にと、急いで片付け、クッキーをタッパーに移した。
どうせみんなでワイワイ摘むのだからいちいちラッピングしてられない。


戸締りと電気を確認して、鍵だけ返して昇降口に向かった。
校舎には吹奏楽部の演奏が微かに聞こえるだけで、いつものような居残って駄弁っている声も今日は聞こえない。


『あ、幸村くん』
「ん?姓さん。お疲れ様」


玄関にぼうっと空を見つめている幸村くんが立っていた。
この時間までいるってことは部活があったのだろうか。でも、他のテニス部の姿は特に見当たらない。


『お疲れ様。幸村くん、傘は?』
「持ってきてないんだ。みんなにも置いていかれたし……」
『折り畳み傘ならあるけど、入る?』
「いいのかい?」


わたしは鞄の中から水色の無地の味気のない折り畳み傘を取り出した。
俺が持つよと、手の中から奪われ、ジャンプ傘ほどある折り畳み傘には少し大きな傘を開いた。
この傘なら二人が入っても沢山濡れることはないだろう。


「大きい傘だね」
『荷物が濡れるの嫌だから』
「へぇ。今日も荷物沢山あるもんね。部活?」
『クッキー焼いたの。食べる?』


エプロンを入れた鞄からタッパーに入ったクッキーを取り出すと、幸村くんは急に笑い出した。
何がツボに入ったのか、ひとしきり彼は笑った。
一度広げた傘を畳みながらも気を落ち着かせては、肩を震わせて笑うから、だんだん意味もなくムカついてきた。


「はー、可笑しい。ラッピングされてると思ったのに」


やっぱりタッパーにガサツに入ってるところだった。
気が変わったから幸村くんにあげませんと言うと、彼は手を合わせ謝った。から許してあげる。


『ジップロックあるから、好きなだけ持って行っていいよ』
「も〜、なにそれ」


再び幸村くんは笑い出した。失礼しちゃう。


わたしからジップロックを受け取ると結構遠慮もなくクッキーを一掴みした。
わたしにはそれが可笑しくて笑ってしまった。

幸村くんはお腹が空いてるんだよと唇を尖らせた。


『沢山あるから気にしないで』
「姓さんのクッキー、美味しいって聞くから食べてみたかったんだ」


そんな噂がいつのまに……。


幸村くんは早速クッキーを口に運んだ。
いつもは友達ときゃいきゃい騒ぎながら食べるから、誰が食べたとか感想とか貰うことはあんまりなかったけど、こうやって目の前で食べられるのはなんだか緊張するな。
美味しく仕上がってるし、今日は特別なことはしていないから、いつもの味ができてるはず。


「本当だ。お店のクッキーより美味しいよ」
『えへへ、ありがとう』
「今度テニス部に差し入れしてよ。お礼はするから」
『いいよ!出来上がってもこのくらいの時間になるけど、いい?』
「構わないよ。今日は雨だから早く終わったけど、いつもならまだ1時間くらいしてるからね」


じゃあ帰ろうか。と、幸村くんは傘を開いた。
自分の傘なのに、少し遠慮がちにその下に潜り込んだ。


「姓さんすごく美味しい匂いがする」
『クッキー焼いてたんだから当然でしょ』
「そっか!」


他愛ない会話をしながら、時期に降り止みそうな雨の中を歩いた。

意外と幸村くんの会話が尽きない。
テニス部で焼肉に行って真田くんと丸井くんが最後まで肉を食べてたとか、最近庭が猫の集会所になってるとか、わたしからはあたり付きのアイスが三回連続で当たったとか。


「今日さ、部活を解散した後、部員みんなに置いていかれたんだ。いいことがあるから待ってろって」
『へぇ〜、わたしのことかな?』
「どうだろう。まぁ、確かに雨に濡れずに電車に乗れるし、美味しいクッキーも貰ったからいいことだね」


白い歯を見せ笑う幸村くんが眩しい。わたしとたまたま会ったことをいいことにしてしまうなんて。
わたしも幸村くんに親切ができていいことができたと思います。


駅まで会話が尽きることなく、友達との帰り道とはまた違う時間を過ごせた。なんだ貴重な時間だった。


「傘に入れてくれてありがとう。雨も止みそうだし、後は走って帰るよ」
『風邪ひかないようにね』
「心配しなくても大丈夫だよ。じゃあ、また明日」
『また明日!』


幸村くんと分かれてようやく息ができた。すごい緊張した〜。
自分が言い出したことだけど、幸村くんと相合傘してしまった。

水色の傘よ、ありがとう。凄く楽しい時間を過ごせたよ。もう一度拝んでおこう。


「……?姓さん何してるの?」
『ひぇ、幸村くん!もう行ったんじゃなかったの?!』
「温かいココアでもどうかなって思って」
『買って戻ってきたの?』
「うん。これは傘とクッキーのお礼。受け取って」
『ありがとう』


正直、雨で少し冷えてたからこういうのありがたい。幸村くん、気が回るんだね。すごいよ。


「今度こそ、また明日」
『うん、またね!』


幸村くんは今度こそ人混みに紛れていった。わたしも早く帰ろ。
温かいココアをポケットに押し込んだ。