名ちゃんは午後の授業に戻ることはなかった。
彼女にしたらかなり珍しい行動で、先生も不審がっていた。
「不二くん、名は物理実験室にいると思う」
「え、なんで僕に」
ホームルームが終わり、カバンに手をかけ教室を出ようとした時に、名ちゃんの友達に声をかけられた。
言い終わると彼女は掃除があるからと、教室を出て行った。
僕に行ってこいってことなんだろうけど。
どうして、僕に。
言われるがままに、施錠も電気も点いていない物理実験室に入る。
日の当たらない薄暗い部屋で一人机に突っ伏している女生徒。
「名ちゃん」
声をかけても反応がない。
寝てるのかなと、近付き肩を叩く。
ビクリと肩を震わせ、身体を起こした。
目を丸くして、でも覚醒しきってないのか、すこしぼんやりとした様子で僕を見つめる。
「午後の授業、サボっちゃったね」
『うう……』
後ろめたさがあるのか、目をそらす。
『びっくりしちゃって、あの人には悪いことしたよね』
「あればかりは名ちゃんは悪くないと思うけど」
酷く落ち込んでいる様子で、俯いたまま手をこねるように弄る。
どこまでも優しい子なんだろう。
あんなに恥ずかしい思いをしただろうに、相手を気遣って、後悔をしているなんて。
チカリとオレンジ色の光が向かいの教室の窓に反射して、物理実験室に射し込む。
ああ、もう夕方なんだ。
姉さんからのメールが頭に浮かぶ。
今日だと言うならば、もうチャンスは今だけなのだろう。
「名ちゃん、あんなことがあった時に申し訳ないんだけどさ」
『なんでしょう』
顔を上げた名ちゃんの目は少し赤い。
あんな奴のことで涙も流したんだ。
ひどいよ。僕のためにこれからは泣いてほしい。
誰かのために流す涙も、優しさも、笑顔も全部僕のために。
僕ってこんなに欲にまみれた人間だったかな。
勝利のために戦うことを覚えてから、随分執念深い人間になってしまったみたいだ。
「僕は君のことが好きなんだ。よかったらお付き合いしてくれないかな?」
言った。言えた。
光に照らされて僕はどんな顔をしているか、名ちゃんには丸わかりなんだろうな。
『不二くん、ありがとう』
ああ、彼と同じか。僕も振られてしまった。
でも胸が軽い。
僕は踵を返し、物理実験室を出ようと扉に手をかける。
『待って』
ガタンと椅子を倒れる音に振り向く。
逆光で見えない名ちゃんの顔。
『不二くんがわたしのことを想ってくれてるの、薄々気付いてたというか、気付かせてくれたんだけど』
「うん」
『その、不二くんの好きにわたしが応えられるかわからないけど、よろしくお願いします』
彼女の影が頭を下げた。
僕はその影に走り寄り、その手を取った。
「なんで彼はダメで、僕はいいの?」
『気持ちがわかるから、かな』
名ちゃんの顔が見えないのが焦れったい。
抱きしめたら、あいつの二の舞かな。
一緒に帰ろう。お弁当を食べよう。デートをしよう。手も繋ごう。キスもしよう。
「よろしく名ちゃん」
『はい。よろしくお願いします不二くん』