カチカチカチ、と時計の針が時間を刻む音がする。ペンをずっと握っていたせいで指の先まで張られていた力をふと抜いて、手元のマグカップに手を伸ばすと中身は空だった。随分集中していたらしい、と文字で真っ黒のノート数ページ分を見返して思った。
肩をぐるりと回しながら顔を上げると、ちゃぶ台の向こうであぐらをかいていた幼馴染みと目が合った。
「どうしたの?」
「…あぁ、いや……」
「幸男が集中してないなんて珍しいね」
真っ新なノートに目をやってそう言うと、気まずげに目を泳がせたので、私は首を傾げようとした。けれど長時間同じ姿勢で肩が凝ってしまったのか、ずきりと首筋に痛みが走ったので諦めた。
幸男が今度は手持ち無沙汰にペンをくるくると回し始める。その様子に私は少し考え込み、やがて「あぁ」と思い至る。やれやれと言わんばかりに首を横に振ってみせると、幸男は眉を寄せて私を睨んだ。
「…なんだよ」
「バスケ、したいんでしょ?」
「は?」
ぽろりと幸男の指から落ちたペンを拾い、間抜けに口を開く彼にそのペン先を向けた。ゆらゆらと挑発するように揺らして彼を煽ってみる。
「もー、テスト期間なんだから少しは我慢しなって」
「なっ、違えわ!」即座に否定した幸男に、私は今度こそ首を傾げた。
「え? じゃあ何?」
「そ、それは……」
キレ気味だった幸男が再び口籠るのにいよいよ不信感を覚えながら、私は彼の分の珈琲に口をつけた。(いつもならここで小突かれるのだが、彼は今日それをしなかった。)
「…あのさ、」
開きかけた幸男の口は、軽快に鳴った電子音によって閉じられることになった。発信元は私のスマホだった。液晶に表示されたメッセージをタップして思わずため息を吐く。返信をする私があまりに倦怠だったのか、「どうしたんだ?」と訊ねた幸男に「彼氏から」と間髪入れずに返す。
「ブッ! グフッ、ゴホッ」
「ちょっと、大丈夫?」
人間から出てはいけないような咽び音を出す幸男に驚いて問うと、口の端から垂れる珈琲を拭いながら彼は慌てた様子で問いただした。
「か、彼氏ってどういうことだよ」
「どうって、彼氏は彼氏だよ。恋人の俗称」
「そうじゃねえよ! お前、いつ彼氏なんて出来たんだよ!」
「いつって、…昨日?」
「っ、はあ?!」
怒号に耳がキンと鳴って、私は睨むように幸男を見た。
「ちょっと、大声出さないでよ」
「だ、だってお前、三日前までは、っ…」
「――幸男が好きだったって?」
静かに口にしたその言葉に、幸男ははっと口をつぐんで目を泳がせた。困惑が露わな幸男に私は苦笑し、教科書を鞄に仕舞い込んだ。
十年来の幼馴染みである笠松幸男に告白をしたのは、つい三日前のことだった。いつものように部屋の窓から進入した(互いの家が隣り合ってるおかげで、ベランダから相手の部屋に行き来出来るのだ。)私は、面倒そうに私を迎え入れた幸男に、まるで世間話でもするかのように、想いを告げた。
笠松幸男の幼馴染みとは、ひどく難儀な立ち位置だ。例えば漫画の中での幼馴染みならば、互いを異性として意識し始めることで最終的に幸せになれる関係性であるのが定石だ。けれど私の場合、彼に女として見られてしまったらもう終わりなのだ。(なんせ集合写真に写っているのさえ直視できないほど、彼は女性が苦手だ。)
それでも、ゼロに近いあわよくばに賭けてしまったのだから、我ながらおめでたい頭だと思う。
「好きだよ、今でもね」
「…なら、なんで」
「お子ちゃまな幸男には一生分かんないよ」
「なっ、!」
羞恥と怒りで突沸して真っ赤になった幸男をフンと鼻で笑って、私は立ち上がった。「…どこ行くんだよ」と不機嫌そうに幸男が問う。首だけで振り返った私が「彼氏の家」と簡潔に答えると、打ちのめされたように目を見開いた幸男はふらりと立ち上がった。
「……ま、っ家?!」
「そうだよ。勉強しようってさ」
「勉強ならここですればいいだろ?!」
「えー、三人は気まずいよ。幸男は知らない人だし」
ヘラヘラと笑う私に、幸男が盛大に顔を顰める。太く凛々しい眉の眉間に深い皺が刻まれた。
「そうじゃねえ!一人で男の家に行くことの意味、分かってんのか?!」
「――幸男には関係ないじゃん」
冷たい声色だったと自分でも思う。笑ってあしらおうと思ったが、存外私も冷静では居られなかったらしい。けれどこうして突き放せば、彼がこれ以上何も言えないと分かっていた。息を呑んだ幸男に私は眉を下げて笑い、ドアノブに手をかけた。
「――関係、ある」
部屋を出ようとした私の腕を、唐突に掴んだ幸男は静かにそう言った。咄嗟に振り返ると、西陽が眩しくて思わず目を細める。俯いたままの彼の表情がよく見えなかった。
「俺はお前の幼馴染みだ」
「…幼馴染みだからって、私が他の人と何をしようが、幸男に止める権利は無いでしょ」
ぐっと唇を噛み、そう言い放った私を黒い瞳ががちりと捕らえる。引きずり込まれそうな力強さを持つその眼に、今度は私が動揺する番だった。
「お前が間違ったことをしようとしたら、俺が止める。それは昔も今も変わらない。お前もそうだろ?」
確信を持ってそう問うた幸男に、脳裏を過ぎったのは去年の夏のことだった。その頃の幸男は、部活で大きなミスを犯したせいで酷く荒れていた。
ただ、自暴自棄になる彼を見ていられなかった。周囲の冷たい声からも、彼自身が持つ苛虐なまでの自責感からも幸男を守りたくて、あの頃は半ばやけになったように彼の側を離れなかった。
やがて幸男が再びバスケの世界に戻るとき、「なんで俺から離れなかった」と問われ、今と同じ台詞を私は彼に言った。彼への恋心を自覚したのもそのときなのだから忘れるはずもない。
一点の曇りもない、意志の強い瞳に私が映される。目頭がじんと熱くなって、私は背くように顔を俯かせた。幸男は知らないのだ。私が彼の純真さに、どれだけ救われてきたのかを。それと同じくらい、突き落とされてきたことを。
「……じゃあ、代わりに幸男がしてよ」
「あ?」
「私を、助けてくれるんでしょ?」
ギリ、と痛いほどに私の腕を掴んでいた幸男の手を取る。幸男が呆気に取られている間に、空いていたもう片手で太い首筋にすがった私は、そっと彼に唇を寄せた。触れるだけのキスをして、閉じていた瞼を開くと、大きく目を見開いたままの幸男を上目で見た。顔を赤く染め上げて、戸惑ったように私を見つめ返す。けれど突き放すことなく、逆に彼自らが顔を寄せてきたのは正直予想外だった。
ぎこちなく、着実に深まっていく口づけを受け止めながら、私は幸男の背中に腕を回した。堪えきれなかった涙が一粒、ぽろりと目尻から転がり落ちる。
おぼつかない手つきで服を脱がしあって、晒された肌の至る所を縺れ合わせて。何度も何度も体を重ねて、縮まらないゼロセンチに自傷した。
この行為にきっと意味は無いと、私達はちゃんと理解していた。けれど卑怯な私と不器用な彼は、これ以上の術で問題を解決する方法もまた持ち合わせてはいなかった。多分、お互いになんとかして相手を分りたかったのだと思う。けれど私たちは大人になりきれないから、こんな幼稚で意地っ張りな方法でしか会話が出来なかった。
「…ごめんね」
優しく揺さぶられる世界の中で、私は彼の耳元で懺悔した。絡み合っていた掌が、私の冷たい熱ごと包み込むように力強く握られる。