平日15時半の街は静かだ。働く大人たちは午後の業務に勤しみ、主婦は家事を終えて一息吐く。もしくは今日の夕飯について悩んでいるかもしれない。学生は時間割によっては、もう部活動を始めている頃だろう。ただしテスト期間を除く。
 
「っだあぁー!」
「うるせえ!静かにしろボケ」

 机にべったりと突っ伏した私に、鋭い怒号が飛ぶ。もぞもぞと片頬をノートの上に乗せて、「幸男の方がうるさいよ…」と返すと、青筋を立てた幸男がグリグリと拳で私の頭を削った。「いたいいたい」とやる気のない悲鳴をあげると、呆れた表情の彼と目が合う。

「テスト勉強しようって言い出したのはお前の方だろ」
「だってしょうがないじゃん、分かんないんだもん」
「授業中寝てるからだろ」
「な、なんでバレた」
「…俺の前の席がお前だからだよ」

 ピキッと米神の血管を増やした彼は、深くため息を吐いた。広げていた教科書を閉じて、側に放ってあった鞄をごそごそと漁り始める。
 やがて引っ張り出したのは、甘い香りを漂わせるピンク色の包装紙だった。

「ほら、これやるよ」幸男はそう言って、艶やかなチョコレートを私の掌の上に乗せた。摩擦でヒリヒリする額を摩りながらそれを眺める。まるく形作られたチョコは、ひと目見ただけでもかなりの労力と時間がかけられているのが分かる。

「どうした、食わねえのか?」

 じっとチョコを見つめたままでいると、幸男が不思議そうに訊ねた。その指には、私にくれたのと同じものが摘まれている。
 ふと思い立って、彼の口に運びこまれる前に私はその手を手繰り寄せた。幸男の骨張った指ごとチョコレートを唇で食み、自身の舌で迎え入れる。どろりと粘っこい甘ったるさが口内に広がる。

「な、なにしてんだ?」ぽかんとする彼をちらと見やり、「こっちの方が美味しそうだった」となんともなさげに言いのけた。

「…はあ?どっちも同じだろ」

 訝しむ幸男に、じりと胸の内が焦げついた気がした。
 自然と下がる視線が、幸男の指先に絡みつくチョコレートの残滓を捉える。それを舐めとるように舌を這わすと、幸男がピクリと身体を跳ねさせたのが分かった。

「お前、」
「…ん?」
「…それ、俺以外にやるなよ。勘違いされるぞ」

 指を口内から引き抜いて、視線で私を射抜いて幸男はそう言う。
 …勘違いじゃないよ。喉元まで出かかった言葉は、掌で溶け始める私の分だったチョコと一緒に噛み砕いた。

「幸男は…」
「なんだ」
「…やっぱりモテるんだね」
「はあ?…あー、これは義理だって貰ったんだよ。大体、モテるって言うのは黄瀬みたいなヤツのことを言うんだろ」

 そう言って一粒、チョコを口の中に放り込んで「今日もあいつは…」とぶつぶつ文句を言い出す幸男の横顔を見つめる。義理相手に、あんなに手の込んだものを渡すはずがないのに鈍感な彼はそれに気づかない。顔も知らないこのチョコレートを作った女の子は、きっと幸男が女の子を苦手としているからそう言ったのだ。

――いいよね、あんたは。他の子と違って遠慮なく笠松くんに渡せるんだから
――幼馴染の特権ってやつ?羨ましいなぁ

 クラスメイトの女子の言葉に私は曖昧に笑って返したけれど、私からすれば、彼女達が羨ましくて仕方がなかった。だって彼女達は、いつだって女の子扱いされる。望めば異性の対象として見られるし、彼の隣を歩ける可能性だってある。
 だけど私は、彼の幼馴染という立ち位置になったそのときから、彼の恋人になれる資格を剥奪された。それどころか、女として見てもらうことだって叶わない。
 ピロン、と間抜けな電子音が私のスマホから鳴った。届いたメッセージに少し逡巡した私は、一言だけ返信をして荷物を片付けた。

「幸男、私帰るね」
「もう帰ってきたのか?夜に帰ってくるって言ってなかったか?」

 そう問うた幸男に、今夜は私の親も彼の家族も仕事で遅くなるので、二人で勉強しようという話になっていたことを思い出した。だから私は今彼の部屋に居るのだと。

「…あー、帰るっていうか、友達の家に行く」
「今からか?ならもうすぐ暗くなるし、送っていくぞ」
「ええっと、大丈夫。その子の家、表通りだから」
「…お前、どうしたんだ?なんか変だぞ」

 目を細めた彼に、ギクリとした。それは勿論、私にやましい部分があることを少なからず意味しているわけで。
 それに気がついた幸男が問いただそうと口を開いたとき、再び私の携帯が通知を知らせる。机の上に置きっぱなしだったスマホは画面を光らせ、送り主の名前を主張した。

「…こいつ、隣のクラスの奴だよな?」
「う、うん」

 スマホを手に取った幸男が訊ねる。ぎこちなく返事をした私に少し頬を強張らせた幸男は「あー…」と視線を泳がせて、気まずそうに首筋を引っ掻いた。

「…いくら彼氏だからって、この時間は良くないんじゃないか?あいつの家の方は治安も良くないし」

 何かを察した幸男がそれ以上深く触れずにスマホを差し出したので、ホッと胸を撫で下ろした。けれど緊張の糸を緩めてしまった私は、ついうっかり口まで緩めてしまったのだ。

「あ、違う違う、彼氏じゃない、よ…」

 彼の大きな目が見開かれるのを見て、私は自分が失態を犯したことに気がついた。数秒の沈黙が流れる。私はとりあえず、「はははー…」と笑って誤魔化し、スマホを受け取ろうとしたが、幸男は目を吊り上げて届かない位置に持ち上げた。

「…彼氏じゃないって、どういうことだ。それに今、家に行くって言ったな」
「い、言ってないよ」
「こいつって、一人暮らししてるやつだよな?」
「幸男、」
「この時間に男の家に行くって、どういうことか分かってんのか?!」

 ぎゃん、と怒鳴る幸男にびくりと肩が震える。私は俯いて、唇を強く引きむすんだ。胸の内側が薄暗く落ちていく。
 分かってる。幸男は、私を心配してくれているのだ。幼馴染として、私を大切に思ってくれているから。分かって、いるのに。

「…ってるよ」
「…あ?」
「知ってるよ。だって何回も行ってるから」

 ごろり、と喉元を重たいものが転がり落ちていった。

「…何回もって、」
「やだなあ。だから幸男には言いたくなかったんだよ。考えが古臭いんだもん」
「お前、」
「なに?私にだってしたいときはあるし、セフレが居たっておかしくないでしょう?」

 胸の奥底に溜まっていた黒い塊がぼろぼろと溢れ落ちる度、幸男が息を飲むのがわかった。
 あぁ、終わったな。凍りつく幸男の表情を見て、私はそう思った。
「…ごめん、もう行くから」取ってつけたように笑った私は、きっととても不格好に映っただろう。鞄を肩にかけて立ち上がり、彼の手からスマホを抜き取った。

「…できれば、誰でもいいのかよ」

 部屋を出ようとしていた私の背中に投げかけられた質問に、耳を疑った。思わず振り返ると、同じように立ち上がった幸男が静かに私を見つめていた。自然と眉根に皺が寄る。

「…なに言って、」
「なら、俺でもいいってことだよな?」

 一歩、幸男が足を踏み出す。広くない部屋で、私達の距離はあっという間に縮まった。
 ハッとして慌てて部屋のドアノブに手をかけようとしたときには、私はもう既にシングルベッドの上に投げ出されていた。手をついて起き上がろうとすると、頭上に影がかかる。背中に乗り上げた彼が、無理やり私の顎を持ち上げる。
 途端に乱暴な口づけが降ってきて、私は目を見開いた。

「ん、っんー!」
「…は、」
「…待って、ゆき、…っ」

 噛み付かれるようだったそれが、性急に深いものに変わってゆく。息継ぎをする間も無く降ってくるキスの雨に、目眩を起こした。酸欠でクラクラする世界でぐったりしていると、シャツの裾から侵入してきた指先に、私は思わず短い悲鳴を上げた。

「…や、やめて」
「…なんで?他のやつとはしてんだろ?」
「ちが、…ぁっ」

 下着をたくし上げられ、直に触れた彼の体温に、さっきまでとは違う色を含んだ声が口から溢れでた。それに一瞬反応した幸男はピクリと動きを止めたが、またすぐに私を責めたてる。
 ぼんやりと霞む意識の中、じわじわと熱に浮かされながら、私は言いようのない感情に苛まれた。本意じゃないと言えど、ずっと望んでいたことが今ようやく叶えられている。はずなのに、行為が進められるほど、心と身体が乖離していくようだった。
 やがて、彼を受け入れやすいように身体を反転させられて、図らずとも彼を見上げられる体勢になった。そしてそこで初めて幸男と目があった時、私は自分の愚かさを知った。ひび割れた幸男の目は,何も写していなかった。目頭がぶわりと熱くなる。とめどなく私を襲うのは後悔の波だった。

「…ひ、ぅっ」
「…!なっ、」
「うーっ、ひ、っく」

 私の中を押し進んでいた彼が、異変に気が付いてギョッとする。ぼろぼろと涙を溢す私に動揺を露わにして、慌てて私から離れようとしたので、私は咄嗟に「抜かないで」と懇願した。ひっくひっくとしゃくりあげる私の頬を伝う涙を、がさつな指先が拭いとる。

「…悪かった。やっぱり、俺にされるのは嫌だったよな」
「っちがう! 違うのっ」

 私は首をふるふると振り、悲痛と困惑に満ちた彼を見上げた。その瞳に私がいることに少しホッとして、顔の横にあった彼の手をぎゅっと握りしめた。

「ずっと、欲しいものがあったの」

 目で追うようになったのは、中学のときからだ。どんどん成長して、逞しくなっていく彼が眩しかった。純粋な憧れだった。そしてその気持ちはいつからか意思を持ち始め、欲深くなった。だから馬鹿みたいに食らいついて、彼を追いかけるためだけに神奈川の高校に進学した。

「だけどそれはどう頑張っても手に入らなくて、私はそれをよく分かってたから、いつも代わりを求めてた」

 彼を諦めようと、私は自分の心に向き合わないで、逃げてばかりいた。その場凌ぎで忘れるために他の人肌を求めては、半ば自棄になっていた。

「でも、それじゃダメだったの。だって私が欲しかったのは、代用品でも偽物でもなくて、本物だけだったから」

 伸ばした手を、彼の頬になぞるように滑らせる。ゆっくりと目を見開いていく彼に、私は目尻を和らげて微笑んだ。

「好き」
「…っ、」
「好きなの。私は、私だけを見てくれる幸男がほしかった。…ごめんなさい」

 ごめんなさい。幸男を言い訳にして。逃げ回って。不誠実なことを嫌う幸男を、最も最低な形で傷つけた。愚かな私をきっと幸男は許してくれないだろう。
 最後に額にキスをした私は、彼から退こうと腰を引いた。けれど直前、肩に軽い衝撃が加わって再びベッドに背中がつく。幸男は私の肩をやわく握ったまま、一度目を伏せる。
 そして次の瞬間に、見慣れた青筋が額を走ったことに、私は「え、」と間抜けな声を上げた。

「この、馬鹿が!」
「ひっ! な、なんで?」
「“なんで”だぁ? あぁ、そうだな、お前は昔からそうだった。なんでもかんでも一人で抱え込んで、思い込みが激しくて、昔から大馬鹿だった。周りが、…俺が、どういう思いだったのかも気がつかないで」

 何かを思い返すように幸男は目を細める。見間違いでなければ、そこには柔らかな温かみが差している。私が戸惑ったままでいると、焦燥に駆られたような余裕のない表情をした幸男が、羽のようなキスを落とした。その頬にさっと朱色が走ったことに、私は息を飲んだ。

「好きだ」
「…へ、」
「好きなんだよ。昔から、ずっと好きだ」

 ぽかんと彼を見上げていると、「…なんとか言えよ」と口を曲げた彼に鼻をぎゅっと摘まれる。
「で、でも、だって…」と言葉にならない私に眉を寄せる彼に、意を決して口を開いた。

「だ、だって幸男、私のこと女として見てないじゃん」
「…はあ?お前、今の話聞いてたのか?」
「き、聞いてたけど、でも、他の女の子と私に対する態度違うし、」
「…お前、好きなやつと他のやつへの態度が同じなわけないだろ」
「だ、だけど!」

「幸男、女の子苦手じゃん! それで私に普通に接してるってことは、私のことなんとも思ってないからじゃないの?」反論しながらまた泣きそうになる私に、幸男はため息を吐いて「いいか?」と諭すように言った。

「俺が女子を苦手だと思うのは、よく分からないからだ。分からないもんは本能的に怖いと思う。どう扱ったらいいか、どう接したらいいか。毎回そんなこと考えるうちに、いつの間にか苦手になっていた。けどお前は違う」
「…それは、ただの幼馴染だからでしょ?」

 そう言うと、汗で張りついた私の前髪をかきわけて、ふっと可笑しそうに笑う。今日初めて、私は幸男の笑顔を見た気がした。私が恋した笠松幸男の笑顔だった。

「そうだな。お前の家族構成も、育ってきた環境も知ってる。未だに茄子が食べられないこと、自転車に乗れないこと、夜中に怖くなるとオバケなんてないさを歌うこと、初めてのおねしょは…」
「わああ! もういいでしょ?!」

 恥ずかしさで思わず顔を覆った私の腕を退けて、幸男は「それから、」と続ける。

「それから、目を閉じると瞼のきわに、小さなホクロが見えること。雨の日はいつもより機嫌が良いこと。部活でミスをした俺の陰口を叩いていた奴らに、一人で向かっていったこと。B級ロマンスでも感動して泣くこと。笑った時の笑顔は、可愛いと思う。けどそれが男に向いていたなら、俺だけに向けてればいいのにと思う」
「……っ」
「これがただの幼馴染に対する目か?」

 私の涙腺は今度こそ決壊した。みっともなくしゃくりあげる私を幸男は笑って、「だせえな、俺ら」と楽しそうに笑う。確かに今の私たちはださくて仕方なかった。十年と幾年も遠回りして、今だってお互い全裸で格好がつかなくて、最高で最低な気分だった。けれどこんな気持ちになるのも、幸男と一緒だったら悪くないとさえ思えてしまう。「…あー、長くなったけどよ」幸男の親指が涙を拭う。

「付き合ってくれるか?」
「…っう”ん」
「ははっ、汚ねえ返事だな」
「うるさい…っ」

 腫れぼったい目で幸男を見上げて、私たちは唇を重ねた。一方的では無い、想いの通った暖かいキス。触れた面から互いに溶け合っていくような甘さだった。

トップページへ