「おわっ、⋯びっくりした」
素っ頓狂な声が聞こえてのそりと顔を上げると、驚いた顔をした日向先輩が私を見下ろしていた。瞬く度にパサパサと乾燥した音を立てる目を擦りながら、首を傾げる。
「…サボりですか?」
「ちげーよ、ダァホ」
「いでっ」
私を咎めるデコピンを一つ飛ばした彼は、机の端に寄りかかった。静まり返った放課後の図書室に、傷んだ木のひび割れる音が響いた。
「休憩中だっつの。ここには監督のパシリで来ただけだ」
全く、人使い荒いよな。愚痴を零す先輩を改めて見ると、確かにジャージの下に着ている白い半袖のシャツがしっとりと濡れていて、その腕には何冊もの分厚い本を抱えていた。(『時計仕掛けの林檎と蜂蜜と妹。』は恐らく誰かの趣味だろうが。)
私は一つ欠伸を零し、物臭に椅子から立ち上がった。傍らに放置された本を取り上げて、文学コーナーへ歩き出す。気紛れに手に取ってみたが、普段本を読まない自分にとっては眠気を催す道具にしかならなかった。
「お前は、木吉待ちか?」
「んー? そうですよー」
本のラベルと同じ数字の棚を探しながら、私はのろのろと後をついてきた先輩に間の抜けた返事を返した。
「こんな遅くまでご苦労なこった」
他人事のように、しみじみとそう言った彼に、私はクスクスと笑った。ご苦労なのは彼も一緒だろう。なんせチームを勝利に導くキャプテンなのだから。
「おい」
「はい?」
「⋯いつまでこんなこと続ける気だ?」
棚に本を押し込む手が一瞬止まる。けれど白い背表紙はすぐに他の本達と並び、同化した。
私は振り返り、真剣な眼差しで私を見つめる日向先輩を見上げた。暑苦しいほどに真っ直ぐな彼は、それ故に時々意地悪だ。ひたすら前を向き続け、諦めを知らない彼は、目を逸らしたくなるような現実からも決して逃げることはない。そんな彼だからこそ、その光に皆が惹かれ、信頼し、どこまでもついていけるのだろう。
コート上で仲間に囲まれた先輩の後ろ姿が目に浮かんだ。
「…どうした?」
黙りこくった私を心配そうに伺う彼に、私はじわりと滲むように微笑んだ。
「先輩、もしかして私にヤキモチですか?」
「なっ、違げーよダァホ!」
「心配しなくても、木吉先輩は日向先輩のこと大好きですよ」
「聞けよ!」
頬を少し上気させて、憤慨する先輩をケラケラと笑う。張りつめた糸のようだった空気が弛んだ。ノイズ混じりの鐘の音がスピーカーから流れ出す。壁にかかっている時計の針は最終下校時刻を指していた。
労わるように彼の肩をポンと叩いて、私は足裏を床から引き剥がした。机の側に歩み寄ってスクールバッグを肩にかけると、その重量で体が少しふらついた。最近は先生による見張りが強化されたせいで、教科書を置いて帰ることが出来ないのだ。
「じゃあ先輩、また明日」
「⋯あぁ」
複雑な表情を浮かべる先輩に気がつかなかったフリをして、引き戸を閉めた。冬の気配がする薄暗い廊下を足早に進む。こういうとき、ビビリ症の私は誠凛に進学して良かったと思う。新設校である誠凛は校舎が綺麗で、不気味なシミの跡が壁に沈着していたり、床が急に軋んだりすることも無い。ふと、帝光中時代にそういうものに悲鳴をあげる度、さつきによく揶揄われていたことを思い出した。
昇降口を出た途端、冷たい刺の生えた風が髪を攫った。視界の端で棚引く黒い糸を指でかき分けながら、もうそろそろマフラーが必要になるかもしれないと考えた。
空気を阻むように腕をきつく抱え込んで歩いていると、校門の前に生徒の小さな集団が見えた。賑やかな話し声に耳を傾け彼らの正体に気づいた時、その中で一番大きな人影に私は飛びかかるように近づいた。
「木吉先輩」
声をかけられた彼はきょろきょろと辺りを見渡し、私を見つけると垂れた目尻を和らげた。
「なんだ、待っててくれたのか。先に帰っていいって言ったのに」
「私が一緒に帰りたかっただけです」
そう言って笑う私の頭を、大きくゴツゴツとした手がぐしゃぐしゃと撫でる。これが彼の照れ隠しをするときの癖だと気づけるくらいには、私達は共に年月を重ねていた。
「おーおー、熱いねお二人さん」
私の存在に気がついた小金井先輩が、ニヤニヤと笑って木吉先輩の背中を揶揄うように叩いた。
「何言ってるんだ、もう夏は終わったぞ」
「いやそういう意味じゃないから?!」
「あはは、小金井先輩って意外と天然なんですね」
「違うよ?!」
シクシクと泣き真似を始める小金井先輩の隣で、水戸部先輩がオロオロと慌てる。その光景を呆れた様子で眺めていた伊月先輩だったけれど、不意に顔を上げた。
「あ、日向来た」
校舎を振り返ると、ついさっき別れたばかりの日向先輩がこちらに歩いてくるのが見えた。その隣には相田先輩が居て、二人は何やら話しているようだった。
ふと相田先輩の視線が集団に向く。その瞳が私を捉える前に、私は木吉先輩を見上げた。
「先輩、帰りましょう。皆さんも、お疲れ様です」
「ああ。皆、また明日」
「おう、また明日なー二人とも」
「気をつけて帰れよ」
手を振る先輩達に笑顔で返し、木吉先輩の背中を追って歩き出した。びゅう、と向かい風が吹いたけれど、彼の大きな体が風除けになったおかげであまり寒くなかった。
「黒子、今のヤツ誰だっけ?」
「僕達と同じクラスの人ですよ。クラスメイトの顔くらい覚えてください」
「そうだっけ? でもなんでソイツが木吉先輩と一緒に居るんだ?」
「⋯あー、あの子はな、」
伊月先輩が言おうとした言葉の続きは、聞こえなかった。
「…冷たいな」
木吉先輩の顔がそっと私から離れる。屈むような格好をしていた彼は、じんわりと熱を帯びる私の唇に触れた。
「⋯先輩が熱いんですよ」
「そうか?」
「そうですよ」
困ったように微笑んだ彼は指先を私の頬に滑らせ、もう一度キスをすると、私の手を握って再び歩き出した。この場合、握られるというよりも包み込まれるという表現の方が適切かもしれない。
強く冷たい風が頬を叩いた。冷気は肌を細かく刻んで、キリキリと痛めつける。けれど、私はやっぱりこうして並んで歩いた方が良いなと思った。
首筋を垂れる滴をそのままに浴室を出てリビングに向かうと、木吉先輩はソファに座っていた。先に風呂を済ませたスウェット姿の彼の視線は、熱心にテレビへ注がれている。
画面の向こう側では、桐皇高校バスケ部がどこかの高校のバスケ部と戦っていた。荒々しくシュートを決めた知っている顔をぼんやりと眺めていると、コートを走り回る彼らの動きが停止する。リモコンを置いた木吉先輩が振り返った。
「あがったのか」
「はい。あ、なんか飲みますか?」
「いや、いい。それよりもここに座って」
両足とソファの隙間をポンポンと叩く彼に従って指定された場所に腰を下ろすと、目の前が真白になって少し驚いた。
「わ、わっ」
「全く、濡れたままじゃ風邪引くぞ」
「お父さんだ」
「何言ってるんだ、お前の父親は今海外出張中だろ」
「そうでした」
タオルの上からわしゃわしゃと不器用な手つきで髪を拭われるこそばゆさに、抑えきれない笑みが零れる。
二人分の体重にソファが沈んで、膝下に滑り落ちてきたリモコンを手に取り、私は再生ボタンを押した。動き出した試合は、桐皇の勝利で幕を閉じた。歓声が聞こえ、画面が暗くなる。一瞬だけ映った大輝は相変わらずだった。
「そういえば、兄に勝ったそうですね」
力強く動いていた大きな手がピタリと止まる。困惑した気配を背後に感じ、私は木吉先輩を見上げようと身じろいだけれど、その前に再び手が動き始めた。
「知ってたんだな」
「そりゃあ彼氏のことですもん。WC出場、おめでとうございます」
「あぁ」
彼が笑ったのが息遣いで分かった。隠しきれない喜びの狭間で揺らぐ、小さな戸惑いも。
私は頭に乗っていたタオルごと彼の手を退けて、振り返った。思った通り困った顔をしていた彼に苦笑して、短い茶色の前髪をかき分ける。現れた額のテープを剥がすと、変色した傷跡が未だ色濃く存在を主張していた。
「⋯見てたんだな、あの試合」
「⋯ん」
おざなりに返事をして彼の首に腕を回した。自分では抱きしめたつもりだったけど、これはしがみつくって言い方が正しい気がした。そのままなだれ込むようにキスを落とす私を、木吉先輩は床に落ちないよう支えながら受け入れる。啄むようだったそれはだんだんと深いものに変わり、いつの間にか主導権は彼が握っていた。
酸素不足で歪む視界で、彼を仰ぎ見る。温かな色を宿す瞳と目が合い、私は逃げるように目を閉じてその広い背中に爪を立てた。
私がもっと強ければ、彼を守れただろうか。せめて普通の女子高生だったら――アイツの妹で無かったら、何も考えずに笑って彼の側に居ることができただろうか。そこまで考えて、私は自嘲気味に首を振った。
私が強かったら、彼は私の側には居てくれなかっただろう。普通の女子高生だったら、彼とこうして出会うことすら無かったかもしれない。全ては、惨めな私を哀れに思った木吉先輩の同情心の上に成り立つのだ。
古いインクの匂いが充満する図書室で、日向先輩に言われた言葉を思い出す。――いつまで? うーん、そうだなぁ。
「⋯私が必要とされなくなるまでかな」
「⋯ん、何か言ったか?」
「なんでもないよ、先輩」