ジリジリジリと、蝉が空気を焦がす音がする。部屋の中は寒いくらいに冷房が効いているのに、鳴き声を聞いているだけで暑くなってくるから不思議だ。
「おい、服くらい着ろよ」
「きゃー」
「きゃーじゃねえ。可愛くねえし」
「ひどいな」
 暴言を吐く声の主を見上げ、寝返りを打とうとひっくり返ると、白いシーツが私の体にふわりと舞い降りた。私は仕方なくそれを無造作に巻き付けて、上体を起こした。ああ、髪がボサボサだ。
「そういう祥吾も裸じゃん」
「てめーと違ってズボン履いてるんだよ。それに、俺は男だ」
「ええー、何それ酷い。男尊女卑は今時流行らないよ?」
「うっせえ馬鹿。さっさと着替えろ」
 私は絡まる黒髪に手櫛を通し、鬱陶しそうにする祥吾を見て笑う。彼はダル男を絵に描いたような人間なのに、変な所で真面目だ。
 ああ、そうそう人間と言えば。
「人間のことってウツセミって言うらしいね」
「あ? なんだよいきなり」
 しゃがんで私の服を拾い集めていた祥吾が、訝しげに顔を上げた。その可笑しな表情に笑い出しそうになるのを堪え、ピンと人差し指を立てて生意気な後輩に教授を始める。
「国語の時間に習ったの。空っぽの蝉って書いて空蝉」
「それがなんだよ」
「蝉の抜け殻のことも指すらしいんだけどさ、私にピッタリじゃない?」
 一応は話を聞いていたらしい祥吾の眉間に皺が寄った。掴んでいた青いワイシャツを無造作に放り、ベッドの側まで近寄った彼はニヤリと笑う。背の高い彼を私は平時見上げるだけなので、上から見下ろすのはなんだか新鮮だった。乱暴な指先が耳朶を撫でる。鋭く真っ直ぐな彼の目は細まり、次の瞬間には容易く唇を奪われた。
「お前は空っぽなんかじゃねえよ」
 好き放題した彼の整った唇が、私の胸元にキスを一つ落とす。正確には、引っ張られてズタズタになった皮膚の上にだ。見る度に嫌な気分になる手術痕でも、祥吾に褒められると愛おしく思えてくる。
「俺のことも気持ちよくさせてくれるしな」
「あはは、傲慢だね」
「それがオレの魅力だろ」
 祥吾は片側の口角をつり上げて自信満々にそう言った。その発言は人としてどうかと思うが、それが似合ってしまうのが灰崎祥吾という男だ。私達はそのまま再びベッドにもつれ込み、結局彼が集めてくれた服を着たのは翌日の早朝のことだった。

 溶けてしまいそうなほど暑い平日の午後。外では相変わらず蝉が煩いくらいに鳴いていて、私もいつものように退屈な授業を受け終えた。適当に開いていたページを閉じ、机の中に放り込む。奥深くには、もう何ヶ月も前のプリントやくずごみが蓄積されている。クラスメイトはそれに腐海と名付け、私を猛獣使いなどと呼んでいた。虫では無く猛獣なのは、自由勝手な祥吾(猛獣)が私の言うことだけは何故か聞くというのが周知の事実だからだ。
「おーい、今日の日直は誰だ?」
「うげっ」
 まさに教室を出ようとしていたとき、担任が大量のプリントを抱えて現れた。面倒ごとを押し付けられる前にコソコソと逃げ出そうとした私の腕が高く突き上げられる。勿論私の意思では無い。
「はーい、この子です」
「ちょっと?!」
「おー、お前か。じゃあもう一人の当番と一緒に、これホチキスで閉じておいてくれ」
 あっさり友達に売られた私は、キロ単位で重みがあるだろう紙束を押し付けられた。颯爽と去っていく担任を暫し呆然と眺める。
「⋯私のアイスが」
「まあまあ、また明日行けばいいじゃん」
「そうだよ。それにもう一人の日直って虹村くんでしょ? ラッキーじゃん」
 ケラケラと私の不幸を喜ぶ二人の友達は、好き勝手に言うだけ言うと無責任にもさっさと帰ってしまった。私は重くため息を吐き、膝を使って紙束を抱え直す。例え本意じゃないと言えど、一度引き受けたものを捨ておくのは私のポリシーに反するのだ。
 食べるはずだった新作のアイスを頭から振り払い、席に戻ろうとしたその時、突如背後から伸びた腕がピシャッと引き戸を閉めた。
「いつまで突っ立ってんだよ」
「あ、虹村くん」
 私の顔の横に腕を伸ばしたまま、虹村くんは不機嫌そうに私を見下ろす。十中八九、今の会話を聞いていたせいだと思う。
 ははは、と笑って頬を掻くと、ため息を吐いて私の手からまるごと紙束を奪い取り、それを向かい合わせにくっついた机の真ん中に下ろした。無言で作業に入る彼を見習って、私も椅子に腰を下ろしホチキスを手に取った。
 パチ、パチと事務的な音が鳴る。それから調子の悪いエアコンが埃にまみれた空気を吐き出す音だったり、時間が五分進んでる時計の針の音。作業に飽きてきた頃に、運動部の鼓舞するようなかけ声も聞こえる。
 そういえば目の前の仏頂面の彼も運動部だったはずだ。主将で、中学ナンバーワンの呼び声も高いと噂好きのクラスメイトが言っていたのを思い出した。
「…すごいなあ、虹村くんは」
「は? なんだよいきなり」
 脈絡もなくそう言った私に、眉を顰めた虹村くんが顔を上げる。その表情が昨日空蝉の話をしたときの祥吾の反応と重なって、私は緩みそうになる口をそっと抑えた。
「いやさ、虹村くんて何でも出来るなあって」
「そんなことねえよ」
「あるって。ほら見てよ、私なんてこれしか終わってないのに、虹村くんはもう半分以上終わってる」
 自分の横に山積みにされた紙束を叩くと、虹村くんはおかしいと言わんばかりに口角を上げた。それが意外で、少し驚いた。彼は怒るか、しかめっ面をしているイメージしかない。
「お前がトロいだけだろ」
「えーそうかな?」
「そうだろ」
「うーん、でも羨ましいな。虹村くんって怖いもの無し、向かう所敵無しって感じがする」
 パチン、とようやく三分の一の紙束を閉じ終え、手を組んでググッと背伸びをした。パキパキという骨の破裂音を聞きながらふと視線を上げると、虹村くんがじっと考え込んでいるのに気がついた。その物憂げな表情に、思わず「どうしたの?」と問う。
 それに彼が答えようと口を開いたときだった。
「ねーいいじゃん、家上げてよ」
 惑わすような甘ったるい猫撫で声は、廊下からだった。扉を通した少しこもった話し声は、意図せずとも静かな空間によく響いた。
「ハァ? ったく、勝手にしろよ」
「やったあ! ショーゴ愛してる」
 二人分の足音が遠ざかるにつれ、教室は無機質な世界を取り戻す。
 全く、祥吾は部活も行かずに何をやってるんだ。と呆れたところで、私の向かいに座る彼も祥吾と同じバスケ部だったことを思い出した。青筋を立ててサボリ魔の祥吾を引きずり回しているのを見かけた覚えがある。
「いいのかよ?」
 フォローをするか否か真剣に悩んでいる私にそう言った虹村くんは、予想に反して静かな表情をしていた。それに面食らいつつも祥吾の死体を見ずに済んだことにひっそりと胸をなで下ろし、「何が?」と再びホチキスを手に取った。
「彼女なんだろ? 灰崎の」
「あぁ、よく勘違いされるけど違うよ。ただの腐れ縁」
「――彼氏でも無い男とセックスするのか?」
 バサバサバサと完成した分のしおりが重力に従って床に広がる。落ちる寸前、咄嗟に手を出したが間に合わなかったようだ。
「びっ…くりしたぁ。虹村くんでもそういう俗な話するんだね」
「否定しないんだな」
「うーん、まあ嘘じゃ無いし。虹村くんも分かってて聞いたんでしょ?」
 しゃがんで、少し億劫な気分のまま紙を拾い集めながら私は言った。自分のためならいざ知らず、人の為に何かをするのはとんでもなく面倒だ。祥吾が私の服をかき集めていたときもこんな気持ちだったのかなと考えて、少し申し訳なくなった。
 机の下に落ちているしおりを一束拾ったところで、椅子の脚が擦れる音が聞こえた。虹村くんがしゃがんだのが息遣いと気配で分かった。
 彼の足元にある一束に手を伸ばしたその時、私よりも後に拾い集めたはずなのに、私の手元にあるのよりも厚い紙束が差し出される。
「あ、ありが、と⋯」
「なんでだよ?」
 差し出された紙束を手に取る寸前、しおりを抱えているのと反対の腕が掴まれた。私はパチクリと目を見開いて、虹村くんを伺い見た。彼の疑問が何に対して提示されているのかは分からなかった。
 けれどその正体は、荒れ狂う彼の瞳の中にあったように思う。お腹の中に轟く何かがあって、それを吐き出してしまいそうになる奇妙な感覚。私はその感情を、痛いほどよく知っていた。
「⋯あ、血が、」
 ふと自分の指先に、ぷっくりと赤い雫が滲んでいるのに気がついた。落ちるしおりを受け止めようとした時に切ってしまったらしい。私を捕らえていた彼の視線も、私の指先へと止まる。私は咄嗟に手を引いて、けれどやはり彼がそれを上回る。
 鮮やかな血液は、何の前触れもなく彼の口内に吸い込まれた。艶めかしい舌が癒すように私の傷口を這い回る。
 私は驚きもせずにぼんやりとその光景を眺めながら、祥吾に胸の傷を愛でられているときと同じ気持ちを抱いていた。虹村くんは数度その行為を繰り返し、出血が治ったことを確認すると私の腕を強く引いた。せっかく集めた紙束が、無残にも再び床の上に広がった。
「…虹村くん」
「呼べよ、昔みたいに」
 挑発的に彼は微笑んだ。私はその笑みを見てなんだかとても泣きたくなった。迷いは無かった。
「⋯修造く、」
 私は何度も彼の名を呼び、その度に彼は私の吐息を貪った。胸の内の靄はゆっくりと濃く色づき、けれど私にはそれすらも愛おしく感じられた。
 空蝉が泣き止んだ、気がした。

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