プロローグ


「(…あ、また来てる)」

東都水族館。
ペンギンエリアの飼育水槽内から観客席を見渡した藤間鈴(とうますず)は、
立ち見エリアの端に立つ一人の男性を視界に捉えた。
日本人離れした顔立ちに、色素の薄い髪の毛。そして長身。
明らかに外国人(もしくはハーフ)であることが判断できるその人物は、鈴が存在を意識し始めた数週間前から高頻度でここを訪れている。

少なくとも、鈴自身が担当している時間のイベントの際には必ずいる。
彼女はアルバイトの身分であるため、出勤時間や担当イベントもまちまちである。
それにもかかわらず、必ず見かけるということは…

彼は何者なのか。
学生?社会人?それとも…実はここの経営にかかわっている覆面調査員?
今日も今日とてその答えを出すことはできないまま、鈴は笑顔で観客の前に立つ。

「はーい、みなさん、こんにちは!東都水族館へようこそ!
私は、飼育員の藤間です。今日は我が水族館で過ごしている、4種類のペンギンたちについてお話しますね!!」


………―――
「藤間さん、お疲れ様。夜の部もよろしくねー」
「お疲れ様です。先輩は今日はもう上がりですか?」
「うん、今日は午後から研究室に籠るの…
はあ、PCよりもこうやって海獣たちと戯れていたい…」
「…お疲れ様です。」
「二度言わなくていいから…と、そうだ。どう?今日もいたの?ペンギン君は」
「なっ、なんですか、その呼び名!」
「えー、だって、いつまでも『藤間さんの気になっている謎のイケメン』じゃ呼びにくいじゃない」
「う…いらっしゃいました」
「ふぅん…じゃあ、夜も来るわね。きっと。いい加減声かけるくらいしなさいよ…」
「で、でも…」
「いつまでもうじうじしない!いい?私たちみたいな研究者はね、自分から出会い作らなきゃ一生独り身なんだから!!!」

急に力強く語り始めた先輩から少し距離をとりつつ、鈴は彼のことを考える。
初めて彼を見たのも、今日のようなイベントの時だった。
立ち見エリアの最前列。一番端に立っていた彼は、周囲が目の前の柵や壁に寄りかかる姿勢を取る中、一人凛と立っていた。
その立ち姿と、整った顔立ちに鈴は目が離せなくなってしまったのだった。
その後、毎回毎回人前に立つときは彼を探してしまう癖がついてしまい、そのことを同エリア担当の大学の先輩に気づかれ…気になるなら、声をかけろ。と顔を合わせる度に言われるようになってしまった。
そんな、ナンパみたいなこと…と口では否定しながらも、鈴自身、出来ることならお近づきになりたいと思うようになっており、タイミングを見計らっている。

「今日の夜イベントは『例のやつ』でしょ?」
「そ、そうです。」
「最大のチャンスじゃない…!いい、今日!今日を逃すわけにはいかないの!!」

絶対に、連絡先をゲットすべし!!と時間ぎりぎりまで鈴に言い続けた先輩は大学に向かうためスタッフルームを出ていった。
鈴は静かになった室内で、ふぅ、と小さく息を吐くと天井を仰ぎ見る。
それから、手元のメモ帳を眺めつつ、少しためらいながらペンを持つ。

「…一応、一応だから。」
―――………


その日の夜。
鈴はペンギンたちの泳ぐ水槽の前にあるスペースに立っていた。
本日の夜プログラムは観客参加型のクイズイベント。正解者には当館オリジナルのケープペンギンぬいぐるみ(中サイズ)がプレゼントされる。
ショップにはストラップタイプの小さなものしか売られていないケープペンギンのぬいぐるみ。マニアには最高の逸品だ。

次々と問題を出し、正解者にぬいぐるみを渡す。
鈴はにこやかに観客に対応しつつ、いつもの位置に例の彼がいることを確認した。
おそらく、クイズへの参加はしないつもりなのだろう。考えている様子はなかった。
そして、イベント終了時間を迎えた。
営業時間が残り15分ということもあり、一気に人が出口方面へ流れていく。
お見送りのため、座っている人たちをイベントスペースから出るよう促していると、例の彼がまだ水槽内を泳ぐペンギンたちを眺めていることに気が付いた。

「(どうしよう、今?今なら…でも…)」

ふと、周りを見渡すとすでにペンギンエリアには鈴と彼の二人しか残っていなかった。
覚悟を決めて、震える手でぬいぐるみを掴むと、鈴は彼の前に立った。

「あ、ああ、あのっ!」
「…なにか?」
「え、えっと、その……よかったら!受け取ってもらえますか!?」
「…は?」

勢いよく、鈴が差し出したのは先程のイベント景品であるぬいぐるみ。
急に声をかけた鈴とその手が掴んでこちらに差し出しているぬいぐるみとを交互に見ながら、目の前にいる男性は眉をしかめる。
…怪しまれている。彼の表情からそう読み取った鈴はあわてて話を続ける。

「えっと、あの、いつもペンギンたちを見ているので、お好きなのかと…で、でも、人前に出ていくのが嫌で先程のイベントには参加できなかったのかな、などと推測しまして…えと、それで…」
「ああ、いや………いただいてもいいのだろうか?」
「はい、ぜひ!残り一匹で、このままひとりぼっちは可哀相だと思っていたので!」
「ひとりぼっち……か」
「え?えっと…」
「ああ、すまない。じゃあありがたく……………おい?」

会話が続いたことと、彼の声が聞けたこと。
その他たくさんの感情が一気に押し寄せてきた鈴の手は、ぬいぐるみを掴んだまま固まってしまっていた。
ぬいぐるみを受け取ろうとしたのに、手を放さない鈴に男性の片眉があがる。

「えっ、あ、やだ、ごめんなさい…!つい…」
「…………本当は、自分が欲しい、とか」
「!!!」

正直、この限定アイテムの作成に関わった鈴は完成度の高いケープペンギンぬいぐるみを欲しがっていた。
しかし、今のところこのぬいぐるみは商品化の目途が立っていない。
ぬいぐるみを渡せなかったのは別の理由であるが、心の奥を覗かれたかのような指摘に鈴は自身の顔に熱が集まっていくのを感じた。

「そ、そんな、スタッフだからってわざと一つ残して持ち帰ろうとか、お、思っていなくて…いえ、出来れば欲しいなと思っていたのも事実ですので、心のどこかで残す気でいたのかも…で、でも、そんなことは許されない行為でして…!」
「落ち着いてくれ。…では、こうしよう。」
「はい?」
「これは、俺が一旦貰う。
そして、君はあそこの売店でもうひとつペンギンのぬいぐるみを買う。」
「…え?」
「君が買ってきたら、ぬいぐるみを交換しよう。
…この限定ものが欲しいんだろう?」
「えっ、えっ?」
「…あまりペンギンには詳しくないんだ。
おすすめの種類のぬいぐるみをひとつ、飼育員である君に選んできて欲しい。」

突然の申し出に、混乱する鈴の耳に、閉館を知らせる音楽が聞こえてきた。
脳裏に、先輩の声がこだまする。
この機会を、逃すわけはいかない。
そう思った鈴は先程スタッフルームで用意していたメモ帳をポケットから取り出す。

「あ、ああ、あのっ、今日はもう閉館時間で…ショップも閉まってしまったので…
べ、別日に用意します!だから、これっ!私の連絡先です!!ここに、次お会いできる日の連絡をください!!」
「…」
「出口まで、お見送りしますね!こちらへどうぞ!!」

自分の名前と、連絡先を記載したメモ帳をぬいぐるみと共に目の前にいる彼に押し付け、
断られる前に次の手をうつ。
こんなにも出口が遠いと感じた日はない。はやる気持ちを押さえながら鈴はスタッフとして彼を出口まで誘導した。

「れ、連絡、待っていますので…!」

ゲートを抜けた彼の背中に向けて、そう叫ぶと鈴はダッシュで館内に戻った。
…そんな鈴の背中を振り返った彼が見つめているとは夢にも思わずに。

「………どうするか」

ぬいぐるみを小脇にかかえ、メモ帳を見つめながらその男は闇の中へと溶け込んでいった。


黒の組織工作員。
コードネーム、カシャッサ。
暗闇の中で生きてきた彼が、
自身を照らす光のような彼女と出会い、凍てついた心を溶かしてく。
これはきっとそんな物語のはじまりのお話。

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